世界にかけた七色の帯 フランス柔道の父 川石酒造之助伝 からの読書メモ

1905年10月26日、フランスで「噛みつくこと、眼をつぶすこと、下腹部を傷つけること以外はすべて許される」とのルールで柔術教師のレ=ニエはボクシング教師のデュボワと闘う。
結果はあっけなく終わる。レ=ニエがデュボワを「腕ひしぎ」で押さえ込んで6秒で勝った。
(フランスでのいわゆるバリトゥードのような試合がこんなに早い時期に行われていたのですね。結果が秒殺なのも、いかにもガチンコらしい)

1925年ごろから、石黒敬七がパリを本拠地として柔道の活動を始めた。
そのデモンストレーションとして、当時すでにパリで有名になっていた画家の藤田嗣治を相手にパリのオペラ座で見せた形の模範演技や護身術には、大統領や閣僚、パリの名士たちが顔を揃え大変な評判になった。しかしその割には弟子の数は増えず、弟子の定着率も悪かった。
藤田嗣治さんも、そんなことまでやっていたのですね)

フランス人には進歩の跡をはっきりわかるような教え方をする。
また短い時間を有効に使うような練習方法を考えなければならない。
またフランス人は技を論理的に理解したがる。
酒造之助は、日本のやり方を押し付けず、フランス人に効果的な方法を考えていった。
「柔道は米か麦のようなものだ。土地に合わせなければならない」とは後の酒造之助の言葉である。

フランスでは一般市民が柔道に関心を持ち、そのためには町の道場かスポーツクラブの柔道教室に行く。会費は高いが、それでも魅力を感じて生徒は押しかける。柔道教師は生徒の数を増やすように努力し、この職業で十分に食べて行けた。
イギリスでは小泉軍治は貴族的なアマチュアスポーツの伝統を引き継いで、利欲に恬淡としていた。
小泉と酒造之助はこの点で見解に食い違いが生じ、不和となったのである。
その後の普及発展の規模においてフランスに追い越されたのは、この二人の指導者の性格や考え方の違いによるところが大きい。

戦後、ピクマルは酒造之助の権威を教皇にたとえ、柔道界のヒエラルキーを教会の階級制度になぞらえた。
しかし絶対王政は長続きしないのがフランスの国柄である。

川石酒造之助は個性の強い人間であった。
フランス人は個性のある人間を好む。周囲からはずれた考え方や行動をとる者を、他と異なっているというだけで切り捨てるようなことはしない。
その意味で酒造之助が活躍の場をフランスに見つけたのは幸せであった。

酒造之助は単なる柔道教師ではなかった。
確かに柔道を教えたのだが、それだけでなく、外国人に柔道を教えるための教授法、道場の運営や宣伝方法、試合や大会の実施方法、柔道教師の養成、柔道家及び道場間の調整と組織作り、全国的な組織等々の一切を考え出した。
「フランス柔道の創始者」と呼ばれるのはそのためなのだ。
しかし決して「フランス柔道」を作り出したのではない。
酒造之助が教えたのは日本の伝統武道である柔道である。
それをフランスに普及させるための方法を作り出したのだ。