世界にかけた七色の帯 フランス柔道の父 川石酒造之助伝

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世界にかけた七色の帯
フランス柔道の父 川石酒造之助伝
吉田郁子 著
平成28年10月15日 二版発行

第二次世界大戦前、そして戦後にフランスで柔道を広めた川石酒造之助(1899-1969)について書かれている本である。またそれに伴いフランスにおける柔道の歴史にも詳しく触れられている。

海外において何かを広めようとするとき、二種類のタイプがあると思う。
一つはあくまでも本国の意向に沿った形で広めるやり方。
もう一つは現地に合わせるやり方。
この本で描かれた川石は、明らかに後者だった。
例えば講道館から派遣された人が、あくまで講道館のやり方にこだわらざるを得ないのに対し、川石はカワイシ・メトッド(メソッド)と呼ばれる独自のやり方を考案し、フランスでの普及にいかした。
そのような基礎の上に、フランス柔道は隆盛を迎え、現在では有数の柔道強豪国となっている。
今回のリオオリンピックでも、リネール選手のような金メダリストを輩出していたし、以前、自分がフランスにいた頃はドゥエ選手が国民的英雄として存在していたのを思い出す。
そのような業績にも関わらず、晩年、日本での評価は低いものだったようである。
画家の藤田嗣治と同じような悲劇なのかと思ってしまう。

兵庫県姫路市出身の川石は、政治家になる夢を持ち、大学卒業後アメリカ留学する。
そして更に南アメリカ諸国の社会を視察する。そしてイギリスを経て、フランスで柔道を教えることとなる。
彼がどの時点で、日本に戻らず、海外での柔道普及に専念しようとしたのかはよくわからない。どうやらアメリカを始めとする外国で少しずつ柔道を普及させていくうちに、政治家とはまた違った世の中に対するアプローチもあるんだなあ、ということに目覚めていったのか、という気がする。

彼をめぐる二人の女性も興味深い。
一人は柴田サメという女性である。貧しい生まれでありながら、新渡戸稲造に認められ、イギリスに留学する。
第二次世界大戦前としては開明的な女性であった彼女がなぜ川石のような封建的な面もある男と付き合うようになったか、はっきりした理由はわからない。二人は第二次世界大戦の危機が迫るヨーロッパを離れるときに籍を入れる。それはあくまで出国のためだったのかもしれない。
もう一人の女性は柴田サメと離婚後、日本帰国時に見合いで決めた麻畠美都子である。
複数の女性と見合いしたが、多くの女性が川石のフランス経験から洋装で見合いに臨んだのに対し、彼女は当時らしく和服で臨んだ。川石は彼女の内に秘める芯の強さを見たらしい。
ちょうど臨月のときにフランスへの再渡航となり、初産はなんとその船の中であった。更に慣れないフランスで子育てだったから、芯が強くなければとてもじゃないがやっていけなかっただろうと思う。