播磨文学紀行 より
2月に家島から室津を克明に歩いて回り、構想を固めたという。
瀬戸内海の島々の美しさと、岩肌の奇怪さが小説を膨らませていった。
家島は名にこそありけれ海原をわが恋ひ来つる妹ならなくに
東から播磨路へ這入って、明石を過ぎ、高砂を過ぎ、淡路島を後にすれば、もう眼の前にあの島かげがうすむらさきに霞みながら陸地の人を手招きする。そして姫路の白鷺城の天守閣の上からでも、書写の御山の姫小松の隙からでも、八家の地蔵堂の崖縁からでも、又は赤穂の岬からでも、凡そ播州一国の内なら、少し高い丘へ上れば、南の海の青畳の上にあの優しい島の姿が見えない所はないといっていい。
潤一郎が滞在していたのは、(家島本島の)宮の港沿いにあった福岡医院で、当時では珍しい洋風の建物であったという。
潤一郎はここを基地にして連日島々を回った。この医院もすでになく建物も新しく建て替わっていた。案内役は郷土史を勉強していた青年・中上実であった。
派手なチェックの背広を派手に着て、ニッカー・ボッカーをはき、ハンチングをかぶるという軽装であった。古風な煙草入れを腰に差し、山や海岸で腰を掛けてはキセル煙草を吸っていたという。
苦瓜助五郎本(元)道が造ったという飯盛山城跡は、真浦の港のすぐ西にある。今は公園になっており、訪れたときは桜が満開であった。
坊勢島から西島の間にあった「天の浮橋」はもう見られない。干潮時に40メートルの洲が浮かび上がって島を結んでいたが、航路の邪魔になるということで掘削されたという。
西島の「天の逆矛」は頂上石と呼ばれているが、そのままであった。
人食い沼について聞いてみると、男鹿島の南にある無人島・加島の沼がそれだという。