宇喜多直家のイメージは何によって形作られたか?(宇喜多直家・秀家 より)

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西国進発の魁とならん
渡邊大門 著
2011年1月10日 初版第1刷発行
 
「梟雄」つまり「残忍で勇敢であること」「荒々しくて強いこと」というイメージで語られることが多い宇喜多氏。
戦国時代においては、自らが生き残るためには、謀略・謀殺を厭わず、それが主君であろうと同盟を結んだ領主であろうと関係がなかった。
忠臣は一人の主人にしか仕えないという観念は、近世に入って儒教が広まったことによる影響が多い。
 
現代において、宇喜多氏に梟雄のイメージが付きまとったのは、昭和37年に刊行された海音寺潮五郎の「悪人列伝」あたりではないか。
それには直家に対し、「陰湿で陰険な小悪人」という厳しい評価である。
しかし宇喜多氏が戦いを繰り広げた備前・美作は、毛利氏と織田氏などの「境目の地」でもあったため、絶えず周囲の勢力に配慮する必要があった。
その点において、目的のためには手段を選ばず、独力で権力を手中に収め、最期に非業の死を遂げた松永久秀斎藤道三とは異なっている。
 
近世の書物「甫庵太閤記」は小瀬甫庵(1564~1640)によって書かれた。
宇喜多直家を取り上げた書物の嚆矢であり、後世に大きな影響を与えた。
その中で直家が蛇蝎のごとく嫌われた理由は、主君である宗景を打倒したこと、婚姻関係を結んでいた領主層を謀殺したことにあった。
甫庵は儒教理念に基づいて史実を論じており、直家のようなタイプは到底許しがたかったのであろう。
ただこの「甫庵太閤記」は読み物としての面白さを強調するため、虚構や逸話もふんだんに織り交ぜられており、注意を要する書物である。
 
あと、1774年に成立した「備前軍記」である。
この内容は、虚実入り混じった内容となっているが、後の研究にも無批判に活用されたことがあった。
しかし少なくとも、宇喜多氏の活躍した時代から150~200年以上経過していることから、一定の資料批判が必要である。
しかしながら、少なくとも直家の前半生は、現代においても、これらの「二次資料」に頼らざるを得ない。
 
直家の跡継ぎである秀家は、豊臣秀吉に認められて、若き五大老にまで出世する。
それでも関が原の戦いで西軍につき敗れ、宇喜多氏は八丈島流罪、という悲運に見舞われる。
宇喜多氏一類がようやく本土に戻ることが許されるのは、明治になり江戸幕府が崩壊してからしばらく経過してからであった。
 
(自分が宇喜多直家に興味をもったのはやはり今回の「軍師官兵衛」でした。
陣内さんによりわかりやすい悪役に描かれていましたが、ドラマゆえ仕方ないにしても、宇喜多家の皆様にとっては不名誉なことで、なんだか心配になります。
この本を読んで、戦国時代、そして巨大勢力の間での地政学的条件、秀家の成功と没落、江戸時代の作家の傾向、面白さを追求するドラマゆえの虚構、などなどの背景が宇喜多家に対する悪いイメージつくりに働いたのだなあと改めて感じた次第です。
日本にしろ欧州にしろ他の地域にしろ、そしてどんな時代でも、歴史というものは歴史家によりつくられていく面も多いようです。歴史=history=物語、という理解が一番健全なのかもしれません。)