播磨灘物語(下) 司馬遼太郎 著

イメージ 1
 
講談社 発行
昭和55年11月25日 第25刷
 
この播磨灘物語(下)では、淡路島、阿波の攻略から、ちょうど最近「軍師官兵衛」で描かれた中国大返しをハイライトとして描いています。そして九州に行った後、死ぬまでの官兵衛(如水)にも触れていますが、「播磨灘物語」というだけあって、そこは簡略になっています。
大河ドラマと平行して読んでいると、活字から簡単に情景を呼び起こすことが出来るのでありがたいです。そして更にドラマでは描ききれない、細かい人物描写や状況説明は小説ならではで、活字の威力を改めて感じた次第です。
 
本能寺の変が起こる天正10年の安土城城下では、南蛮風のキリシタンの学校が異彩を放っていた。
ここでは諸侯の子弟が宣教師オルガンチノから、ポルトガル風の初等・中等教育を受けており、キリスト教の教理だけでなく、ラテン語ポルトガル語・音楽などをおそわっていた。時には南蛮楽器の伴奏による少年たちの合唱の声が聞こえたりした。
 
信長の急死を聞いた官兵衛。深夜に安国寺恵瓊を呼び出し、講和を急ぐことで、意見が一致した。
伝承として、官兵衛は秀吉の承諾を得、ひそかに本能寺の一件を恵瓊に告げだという伝承がある。この伝承は主に毛利方につたえられた。しかし秀吉・官兵衛が恵瓊につげたという事実はない。
(このあたり、軍師官兵衛では恵瓊に伝えてましたね。少し驚きましたが、二人が歴史を裏で動かす快感、が感じられて興味深かったです。まあ確かに、急に敵方を呼びたてるというので、毛利方も何か裏があると思って当然なので、微妙な立場の恵瓊にはあえて告げておいても不思議ではないかもしれません)
 
明智光秀に対し、「弁解の余地のない悪」だと言い切る。
それに対し、改めて右近は骨の髄まで奉教人だと思う官兵衛。
切支丹は仏教と違い、善悪が明快で、容赦会釈もないほどに論理的なのである。
切支丹は信仰上の裏切りはもちろんだが、世間の人倫関係での裏切りをも激しく憎む。
ところが日本の倫理風習は多分に相対的で、裏切るということをときにさほどの悪とはせず、事情や状況上やむをえなかったとむしろ同情的にみてやる場合もある。
 
官兵衛は
室町期に飛躍した農業生産力と商品経済の勃興
流通する貨幣に対する新しい感覚
それらと不離のかたちでこの時代を特色付けている大航海時代の圏内に入ったという意識
またそれと不即の関係で入ってきたキリスト教に対し、その新奇な普遍性に対してあこがれたり昂揚したりする感受性
など、戦国末期の時代の気分を、そのまま思想として身につけていたようなところがある。