1178年 パリ 二十歳の静かなる熱情④

パリ左岸、セーヌ河沿いの肉屋横丁にあるネッカムの下宿は、一階が家主の部屋と台所になっており、二階が学生の部屋である。
ネッカムは、グラン・シャトレの衛士の鳴らす夜明けの角笛とともに起床する。
この角笛は太陽の上縁が地平線に見えたときにならす。
ネッカムは大急ぎで衣服をつけ、水タンクを利用し、羊の脂と木炭でつくった石鹸で顔や手を洗い、蝋板と書物を入れたカバンをもってプチ・ポンに急ぐ。
プチ・ポンのアダム先生は、もう戸口を開いて待っている。彼はここの二階に寝泊まりしているのだ。
午前中は学生の作文や宿題の点検、質疑応答の時間である。
これが十時まで続くと昼休みになる。学生はそれぞれの下宿に帰り、第一回目の食事をとる。
たいていは途中で買ったパリ名物のパイ(ハム・鶏・ウナギに塩・胡椒をふりかけて焼いたもの。おいしそう)にブドウ酒一杯のアペリティフをやる。
食事は野菜の煮ものとスープ、それにパン。
肉類は一週に一、二度と数えるほどしかない。
汁気の多いごった煮のようなスープを、パンにしませて食べる。
飲み物はブドウ酒だが、へナプと呼ぶ大きいジョッキを回し飲みする。
食事の後は大休憩で、二時か三時にまた学校である。
まずは教師が講義をし、それが終わると夕刻晩鐘まで議論が行われ、明朝への宿題が課せられる。
学生は蝋板を使い、先生の言葉を最大限忠実にノートする。
書物が乏しいので、先生は生きた書物なのだ。
学生は講義のあと、別の紙(当時作られ始めた)か、場合によっては羊皮紙に清書する。
プチ・ポンは狭い場所で、なおかつ通行人が多い。
ここが学校とは驚き入った話だが、実はここが教師にとっての特等席なのだ。
通行人にも聴いてもらい、評判を立ててもらえるからだ。
 
夕食後の学生は各々部屋で夜遅くまで勉強するのが例である。
ろうそくを用いたが、暗い上に馬鹿にはならぬ出費である。
もちろん勉強していたばかりではない。
飲み屋や、怪しげで魅力的な都会の女性はいたるところにいた。
我らの真面目なネッカムくんは、書物と食物の出費が主で、そのほかの点では話題というか武勇伝というか・・・は残さなかったようだ。
しかし有名な学生詩のひとつに
 
俺の願いは飲み屋で死ぬこと、
そこでは死ぬまで酒がある。
それで天使は合唱するだろう、
「神よ、この飲み助にお慈悲を」と。
 
このような、誘惑の多い当時としては大都市で、飲み、買う学生は少なくなく、そのために金に窮し、学業放棄に至るものも、もちろん少なくはなかった。
 
(大世界史7 からの引用です)