1178年 パリ 二十歳の静かなる熱情③

若きアレクサンダー・ネッカムはパリのシテ島から、左岸にわたるプチ・ポンに近づく。
はじめてパリを訪れた中世の学生にとって、この橋をわたるのは教会の内陣に入るような神聖な感動をおぼえるのであった。
というのは、この橋こそ、パリでの学問精神の中枢だったからである。
その名の通り、この橋は右岸へと渡る大橋よりも小さい。そして両側に並ぶ家は二階あるいは三階建ての木造である。
中間には二か所ほど空き地があり、二列の石とベンチが橋と直角に並べてある。
ここから川の景色を眺めたり、暑いときはセーヌに飛び込んだりするのだが、最も大事な用途は教室だった。
パリ大学には教場の建物は無かった。
教師の家か学生の学寮、そして気候のいい時は青空教室も珍しくなかった。
ネッカムが訪ねたのは、橋上十件の一つに住むアダム先生の家だった。
アダム先生もイギリス出身である。同郷の先生に紹介状を出して入門を乞い、下宿の世話もお願いする。
 
プチ・ポンの左岸の入口にはプチ・シャトレという塔がある。ここはパリの警備長官の居所で、地下は牢獄になっている。
このせまい門をくぐると、セーヌ左岸の景色が一度に目に入る。
プチ・ポンを出た道は、9メートルに近い、整備されたローマ軍道、オルレアン街道である。
この道が前面の丘の上に消えていくあたり、一面のブドウ畑の右手にはローマ建築の宮殿やローマ時代の浴場跡が見える。
ネッカムの下宿はセーヌ左岸で、川と平行に東に続く狭いが活気にあふれた、やたら肉屋の多い、そのまんま肉屋横丁と呼ばれるところである。
その通りを更に東に進み、きれいな小川にかかる橋を渡り、美しい牧草地に出る。
その向こうに見える立派な修道院が、サンヴィクトワール修道院である。
ネッカムがやってきた1178年は、セーヌ左岸の発展がはじまったばかりで、肉屋横丁の周辺を除いては、低いところは草地、高いところは畑がブドウ畑で、そのほかにはサン・ジェルマン、サント・ジュヌヴィエーヴ、サン・ヴィクトワールの三修道院まで、目を遮るものは無かったのである。
 
ちなみにこのときのオルレアン街道は、現在のサンジャック通りであった。
そしてサント・ジュヌヴィエーヴ修道院のあとは、今のパンテオンとなる。
ローマの浴場跡は、その後クリュニー博物館となっている。
 
(大世界史7からの引用です)