1178年 パリ 二十歳の静かなる熱情②

我らのアレクサンダー・ネッカムは朝日とともに、サンジェルヴェイ教会の宿坊を出発する。
ちなみにこの教会は今現在もあるようで、ちょうどパリ市庁舎の東に位置する。
きょうはネッカムにとっては、憧れのパリで学ぶ先生を訪ねる日なのだ。
右岸市区をななめに横切る大通りを通り、南北に走るサン・ラザール通りに出る。
通りには市門があいて商売のため市内にはいった人がいっぱいである。
そしてシテ島に入るには、幅6メートルほどの石橋を通る。
橋にはちょうどフィレンツエのベッキオ橋のように、両側に店が並んでいる。
二階家で下は店で上は商品置き場などになっている。
この店のせいで、実際に人が通る幅は3メートルくらいしかない。
その橋の店の多くは、両替屋・貴金属商・皮革製品の店でしめられている。
そしてセーヌ下流から遡る船は、このあたりで荷降ろしをし、橋のたもとで売買される。
よって目いっぱい混雑するのである。
ネッカム君はこの橋の上で両替をする。
今と違い、ブローニュで通用する金もパリでは通用しないのだ。
やっとのことで橋を渡り終え振り返ると、橋のアーチのあちこちで、移動式の水車で粉ひきをやっている連中を見かけた。
橋を渡った道はまっすぐに王宮(今の裁判所)の前を通る。
まだこの時代にはサンシャぺルも、まっすぐに左岸に抜ける橋もなかった。
そこでネッカムは左に折れ、織物商人街をとおり、ユダヤ人のシナゴーグを見る。
このあたりはユダヤ人が多かったが、フィリップ二世によりパリ外に追放されてしまう。
そしてネッカムは左岸に達するためのプチ・ポンの方に向かう。
その途上で彼の注意をひいたのはノートル・ダムの施療病院だった。
この中の一室にはパリの中で貧しい18人の学生が収容され、宿と少しのお金と引き換えに、葬式の無き男をつとめるのだ。
これが1180年にできるパリ大学最古の学寮、18人僧学寮のもととなる。