大世界史 7 中世の光と影
堀米庸三 著
文藝春秋 発行
昭和42年12月25日 初版発行
ある学者のいうには、アドリア海の奥に近いフィウメ(旧ユーゴ)から、バルト海奥のタリン(エストニア)に向かって直線を引くと、それはウィーンをかすめ、旧チェコスロバキアとポーランドのほぼ真ん中を通り、ケーニヒスベルグでバルト海に出る。
この線の西側が、すなわちヨーロッパなのだという。
要するに、歴史的には、西ヨーロッパこそ本来のヨーロッパ文化を育て上げた地域なのであり、ヨーロッパの名に値する地方だということである。
ローマでは、キリスト教はまず下層社会をとらえ、ついで徐々に上層に浸透していった。
キリスト教はまず弱いもの、しいたげられたものの宗教であり、帝政初期のローマ下層社会にはそれを受け入れる素地があった。
ところがゲルマン人の場合は、上層から下層に浸透していった。
ゲルマンは血縁的組織のためキリスト教の進出が困難だったが、その克服のために王権の利用が最も効果的だった。
支配者の個人的資質を越え、しかも被治者の文句がない自発的服従を獲得できる条件としては、ひとつには支配の長期にわたる伝統であり、二つには支配に与えられた宗教的価値である。
シャルルマーニュこそはEEC(当時)の理想を最初に掲げた人として、1965年、市庁舎に「ヨーロッパ平和の礎石」がおかれた。
アーヘンはヨーロッパの精神的故郷である。ここほどに由緒のある町は、ローマを除けば他には見当たらないであろう。
蹄鉄の使用
農耕における馬の使用とけいが法の改良
有輪重りの普及
三圃農法の導入
水車の普及
これら一連の農業技術上の変化を、歴史家は中世ヨーロッパの技術革新と言っている。