マクセンティウスかコンスタンティヌスか(フォロ・ロマーノ、ローマ)

イメージ 1
当初は、このバシリカは「マクセンティウスのバシリカ」と呼ばれていました。
これはローマ帝国の事実上の皇帝だった彼が306年に竣工したことに由来します。彼は多くの公共建築物を造りましたが、今に名前が残っているものとしては唯一のものです。
しかしコンスタンティヌスとの、キリスト教社会、中世社会の幕開けとなる、天下分け目の「ミルヴィウス橋の戦闘」に負け、コンスタンティヌスが正帝についたことにより、バシリカの名前も、その時代から「コンスタンティヌスのバシリカ」となってしまいます。(現在では、二人の名が併記されることが多いようです。)
そして前々回の記事で書いたように、内部には巨大なコンスタンティヌスの像が建てられていました。
 
マクセンティウスまでの時代は、このような建設工事にはキリスト教徒が強制労働させられたようです。
しかしこのバシリカについては、そのような記録はありません。
キリスト教を国教にしたコンスタンティヌスの敵だったため、当時および後世のキリスト教社会からも忌み嫌われたはずです。それでも強制労働の記録がないということは、それがなかったという説にも真実味が増します。
 
(「ローマ人の物語13最後の努力」を参考にしました)