Ⅳ 東西間の往復運動
日本滞在記の前期と後期を比べると、チェンバレンの日本研究の面での違いの他に、彼がヨーロッパに里帰りをした回数に大きな違いがあることがわかる。
それでも日本滞在記の後半においても、ヨーロッパに里帰りした期間よりも、日本に滞在していた期間の方がずっと長い。
チェンバレンは満22歳の時の初来日から満60歳の時の最終離日までの青壮年期のおよそ6分の5の期間を日本で過ごした。
日本からヨーロッパへは当時はカナダ経由で行くのが時間的には最短で4週間で到着可能だった。
香港やスエズを通って行く西回りの航路を選ぶと、所要時間は6週間だった。
チェンバレンは日本の生活のどのようなところに魅力を感じたのか
・日本の自然の美しさ。日常生活に美が浸透している。
「日本では、全ての茶碗、全てのタオル、全ての部屋の木工品、爪楊枝を包むのに使われる小さな紙に至るまで、要するに日々の生活のあらゆる瞬間に手にし、目にするものが全て何でも美しく、それなりにささやかな芸術品なのです」
・日本が彼の健康のために最適の地であった
チェンバレンがヨーロッパに里帰りをした最大の理由は、第2回の里帰りからは、親族に会うことを別にすれば、パイロイトの音楽祭に行ってワグナーの楽劇を鑑賞することであったように思われる。
チェンバレンの日本滞在記後半は、「在来の研究の修補」が中心となった。また経済的な理由からも一般の需要のある本に力を注ぐようになった。
Ⅴ バジルとヒューストン
チェンバレンのゲーテ批評
「死後になってから驚くべき経歴をたどる人々がいる。確かにゲーテは生前も偉大だと思われていた。それでも、人々は遠慮なく多少の批判をしたものだ。しかし、ドイツが超大国になった時、ドイツは自己のヨーロッパと世界に冠たる地位を象徴する金ピカの英雄を必要とした。それでゲーテが神格化されることになったのである。彼の片言隻語も神託になった。最もゲーテの神格化は避けがたいことだった。というのは、彼を除いてゲルマン民族の中にその役を勤めることのできる人間が一人もいなかったからだ。プロシアのフレデリック大王は南ドイツの人間が嫌がる、住民の半分がカトリックにとどまったドイツではルターもだめ、カントも哲学としてだけの偉大さでは広い派手な人気を博するするわけにはいかない。そこでゲーテがオリンポスの主神ジュピターのように幅をきかせることになったのだ。」
チェンバレンと弟ヒューストンとの通信は1915、16年に途絶えた。
Ⅵ 晩年
チェンバレンがなぜ1908年に自分の日本学者としての経歴は終わったという感じを持ったかといえば、それは何よりも自分の健康状態に対する悲観のゆえであったと思われる。
韓国併合と大逆事件はチェンバレンの目には例外的な出来事としてではなく、明治政府および明治日本の反動化を示す象徴的な出来事として映ったようだ。
チェンバレンの晩年にとって、決定的に重要なことの一つは、最後のヨーロッパ里帰り中に、1908年10月末からシャルル・ボラールというフランス人秘書兼朗読掛りを雇うとことになったことである。
彼が一緒になってからは、チェンバレン は自分の老後の過ごし方を決めるについては、常に自分のことだけでなく、ボラールのことも考慮に入れたようだ。例えば、どこで老後を過ごすかに決めるにあたっては、ボラールが外国語の不得意な、事実上フランス語しかよく話せない青年であることも当然重要な考慮事項だった。
チェンバレンが日本研究に代わってフランス詩の研究を自分の老後の仕事に定めたのもおそらく、ボラールが事実上フランス語しかよくできない人間だったことと関係がありそうだ。
晩年のチェンバレンは健康上の理由で人にもほとんど会わずひっそりとした生活を送った。しかしながら、彼の生活が隠者の生活のような外観を呈したとしても、それは彼が周りの世界に無関心になったことを意味しなかった。
晩年のチェンバレンは教えるより、ひたすら学びたいと思ったようだ。彼はやがてジュネーブ大学の聴講生になり、大学の講義を聞きに行くようになる。
チェンバレンが杉浦藤四郎に書いた数多くの手紙を読んで驚くことの一つは、これらの手紙でチェンバレンが杉浦に対して全然恩着せがましい態度を示していないことである。チェンバレンは常に杉浦の自由と自主性を尊重した。
チェンバレンはジュネーヴのホテルでひっそりと死んだ。彼の名を刻んだ墓などはないという。
チェンバレンから杉浦への手紙
「周りを見渡して、いかに幸福な結婚が少ないか、いかにしばしば子供たちが両親を失望させているかを見ると、私はしばしば、全てを考慮に入れた時、私が独身を通したのは多分賢明なことだったと自分に言い聞かせるのです。」
あとがき
編集委員がモースとチェンバレンの人柄を対照して、モースが万人に愛される非常に人柄の良い人間だったらしいのに対して、チェンバレンはそういった好人物ではなく、むしろ難しい人柄の人間だったらしい、と言った意味のことを言われた。
しかしモースに続いてチェンバレンについても評伝を書き上げてから振り返ってみると、モースは研究らしいことを始める前に編集委員の言葉などから作り上げたイメージと矛盾しない人物だったのに対して、チェンバレンは調べ 出してみると、予想していたのとは違った人物であった。偏屈な変り者どころか、これほど真摯な生き方をした人間は稀有ではないかと思われるほどのまっとうそのものの人間で、人に対する思いやりのある寛容な態度、名誉・権力に対する淡白さなど、どこから見ても素晴らしい人格の持ち主だったのがチェンバレンだった。
日本学者としてのチェンバレンを日本に対する愛に欠けた日本を見下した西洋至上主義者と決めつけた著書や論文が目についた。ところがチェンバレンについての一次資料をちょっと読んでみると、チェンバレンの日本に対するあたたかい愛や異文化に対する開かれた態度を物語る言葉が枚挙にいとまがないほど出てきて、このような否定的なチェンバレン評価もまるで実情とはかけ離れた虚像に過ぎないことを思わせたのである。
従来のチェンバレン像を歪めてきた第一の原因と言うべきものは、ともに1850年生まれで何かと比較されるところの多い二人の知日家、ハーンとチェンバレンの2人、の違いを事実の裏付けを欠いたまま極端に強調し、前者を善玉、後者は悪玉的に扱う一部のハーン研究者の傾向にあったのではないかと思われる。
略年譜
1888(明治21)年
5月16日、日本アジア協会で上田万年(上田萬年)の協力を得てなった“A Vocabulary of the Most Ancient Words of the Japanese”(「日本人の最古の語彙」)と題する研究発表をする。