
小栗上野介
忘れられた悲劇の幕臣
村上泰賢 著
平凡社 新書561
2010年12月15日 初版第1刷発行
大河ドラマになることが決定した小栗上野介の評伝です。
地味な人物ですが、以前から気にはなってました。
どう大河ドラマにするかとも思うのですが、周りはバチバチしてる時代なので、渋沢栄一みたいな感じになるのかな?
はじめに 忘れられたもう一つの歴史
小栗は34歳の時、世界一周をして帰国し、渡米の見聞をもとに帰国後の8年間、幕末の日本の構造改革に奔走します。実施した近代化の業績は横須賀造船所建設、洋式陸軍制度の導入による軍制改革と訓練、仏語伝習所開設、日本初の株式会社設立を指導、鉄鉱山開発、滝野川大砲製造所建設など多岐にわたります。
また郵便・電信・ガス・鉄道などの設立を提唱しました。後に明治維新から大正期にかけて 政治、財政、外交で多くの功績を残した大隈重信に、「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」と言わせたほどの改革でした。
横須賀造船所の建設は彼の業績の筆頭。その特徴は
・船だけを造るのではない、あらゆる工業製品を造る総合工場であった。(ワシントン海軍造船所がモデル)
・初めから本格的な蒸気機関を原動力に用いた工場
・日本を「木の国から鉄の国へ変える」ための基盤工場としての役割
明治新政府が始めた学校教育では、日本の近代化は明治以後で、江戸幕府の政治は遅れた封建政治だったという前政府否定の歴史教育を根底にして、日米修好通商条約は不平等条約と位置付け、その改定に苦心したという苦労話に重点をずらして教えられました。また遣米使節の行程や業績も咸臨丸の国威発揚話にすり替え、こうした幕末における近代化の歴史の継続性はほとんど認知されることなく、近代化が突然実現できたような歴史が語られていたと思えます。
第一章 日本人初の世界一周 四万キロの旅
第一節 アメリカへ
1860年1月、日米修好通商条約の遣米施設団として訪米
米国軍艦ポウハタン号、アメリカ政府が迎えに派遣した船
アメリカ人水兵たちには、樽に入った味噌や醤油や漬物が臭いと言われました。
咸臨丸はこのポウハタン号の護衛船という名目ですが、ポウハタン号より3日早く出航。先に太平洋を渡りたいという競争心、名誉心がそうさせたのでしょう。
咸臨丸のブルック大尉は、アメリカ海軍ではまだ数少ない太平洋横断の航海経験者でした。
勝海舟が航海中にデッキまで上がってきたのは3回ぐらいだったようです。
小栗はブルック大尉から事前に渡米について学習を受けていた。
ポウハタン号もものすごい暴風雨に遭遇する。
その大嵐により想定外に石炭と水を消費してしまい、その補給と破損した船体を修理するために、ハワイ諸島に立ち寄る。
カメハメハ4世と謁見。4世は以前にニューヨークで乗った汽車の車掌に黒人使用人と間違われ、降りるように命じられるという人種差別の屈辱を味わったことで、アメリカ嫌いになっていました。
ブルック大尉との別れの挨拶の後、木村喜毅がドル紙幣の詰まった箱を示し「欲しいだけ取ってくれ、私の気持ちだ」とすすめると、彼は「その気持ちだけで十分だ」といい、受け取りませんでした。
第二節 熱狂で迎えられた使節一行
サンフランシスコからパナマ港に上陸する使節一行
パナマ鉄道に乗車する(まだ運河はなかった)。全員が汽車に乗るのは初めての経験
カリフォルニアのゴールドラッシュを契機に、たくさんの人々が西へ移動するようになりその時のルートとして造られた。
大西洋側のアスペンウオールから迎えの船ロアノウク号に乗船
ワシントンに上陸
歓迎の人では大変なもので、アメリカ人から見ても、これほどの人が集まったのはワシントン始まって以来のことだったようです。
これほどの 歓迎風景となった原因
・外見の衣装風俗が欧米風と異なる
・76人という大人数。大抵の国の使節は数人でやってきた
・アメリカに優越感があった
第三節 見せつけられた力の差
ワシントン海軍造船所
工場内の大きなスチームハンマーで真っ赤に焼かれた鉄の棹を、一打ちで切断していました。日本では鍛冶屋が鎚を振るって何日もかけてようやく切るものを「豆腐を切るごとし」切る。
渡米した日本人が、日本とアメリカの差を最も痛感したことは、アメリカが鉄が豊富に使われている国だということ、つまり日本との圧倒的な鉄の量と加工技術の差でした。
ニューヨークのブロードウェイの大行進。ホイットマンの詩に詠まれた。
条約の入った箱を載せた馬車で、ハンケチを振り投げキッスではしゃいでいた少年トミーこと立石斧次郎はこの時17歳でした。