水道が語る古代ローマ繁栄史(第二章より古代ローマの各水道幹線)

クラウディア水道橋

第二章 古代ローマはなぜ長大な水道を造り、トンネルや水道橋を多用したのか 古代ローマの水道幹線の話

首都ローマには紀元前312年に造られたアッピア水道をはじめとして、11本の幹線の水道があった。226年に最後のアントニアーナ水道が、カラカラ浴場へ水を供給するために建設された。よって11本の水道建設に約540年間かかったことになる。

537年の東ゴート王国軍のローマ侵攻に対して、ローマ防衛のため、蛮族の侵入路になる恐れのあるローマ水道を封鎖した。ここで紀元前312年のアッピア水道以来、約850年にわたるローマ水道は機能停止したわけである。

 

首都ローマの水道幹線

アッピア水道

ローマ初の上水道アッピア街道も同じ年に完成

テヴェレ川に流れ込むアニノ川上流の火山地帯の湧水群が水源

直接湧水を利用するのではなく、15mも地下に掘り下げ、トンネルに導いた。

表面からの取水では、雨天時に等に汚濁の恐れがあるためであろう。水質は良好

ケルソン(戸口監察官)の一人アッピウス・クラウディウス・カエクスにちなみ命名

この当時、ケルソンの任期は通常 1年半であったが、ローマ元老院はアッピウスの任期を5年に延長させて、街道と水道の両方を造らせた。

 

・旧アニオ水道

紀元前269年に完成。工事期間をわずか3年間

ピュロス王の財宝が水道の建設財源となる。

水源はテヴェレ川に流れ込むアニオ川の上流の表層水

表層水を直接取水していたため、工事等に汚濁することがあり、水質はあまり良くなかった。

 

・マルキア水道

紀元前140年に造られる。

財源はカルタゴ からの戦利品

計画の立案者である法務官マルキウスの名前をとった。

ローマ水道最長で 全長91.3km

水道を高い位置に到達させるため、ローマ水道のシンボルともいえる長大な水道橋を初めて建設した。

水源はアニオ川上流の湧水源で、石灰岩質の湧水群の地下から取水しているため、水質は良好

この水質の良さのため、1870年ローマ法王ピオ9世は、イギリスの力を借りてマルキア水道を復興し、現在もローマ市内に給水している。

 

・テプラ水道

紀元前126年に建設

水源はアルバーナー山の渓谷の温泉水

水源が火山地帯の温泉で、水が生温かい(ラテン語で「tepid」、イタリア語で「tepore」)ということからこれを水道の名前とした。

 

・ユリア水道

マルクス・アグリッパにより紀元前33年造られた。

名称はアウグストゥスの家名「ユリア」にちなむ。

水源やルートはテプラ水道とほぼ同じ。

ユリア、テプラ、マルキアの三水道は、首都ローマの南東部に位置するマジョッレ門で3層構造となっている。

構造物の維持管理の面からすれば、三水道を合流させて 1本にした方がやりやすい。しかし古代ローマ人は3本をそれぞれ独立させた。水質の管理や災害等を考慮して、複数水路の方が当時は 非常時対応は良いと考えたのだろう。水道は何のために必要かを考えた、素晴らしい判断である。

 

・ヴィルゴ水道

紀元前19年にマルクス・アグリッパがユリア水道に続いて建設した水道で、最初の本格的公共大浴場であるアグリッパ浴場に水を供給するために造られた。

水源地とローマ到着時の標高差わずか4mしかなく、1000mで19cm下がる千分の0.19 という非常に緩い勾配で、古代ローマの測量技術の素晴らしさを物語るもの。

ヴィルゴとは、ラテン語で「少女」とか「乙女」の意味。この水が現在も引かれているトレヴィの泉レリーフにもあるように、水源を探していた時に、少女が泉の位置を教えたとの故事により命名された。

 

・アルシェティーナ水道(別名アウグスタ水道)

紀元前2年に完成。テヴェレ川の西岸に給水。

水源はローマ北東部のカルデラ湖のマルティーニャノ湖(旧名アルシェティーナ湖)で、水質は良くなかった。

 

・クラウディア水道

38年建設開始で52年に完成

14.2km とローマ水道最長の水道橋を有している。

水源はアニオ川上流の石灰岩質の湧水群

 

・新アニオ水道

52年に完成

橋梁の高さは33mに達するものもあり、ローマ水道の中で最高の高さ。

送水量もローマ水道中最大であり、ローマ到達地点の標高も最高

当初の水源地は川の表層水を使用してたため、水質が不良であった。そこでフロンティヌスは、皇帝ネロがレジャー用に造ったスビアコのダム湖からの取水に変更した。

スビアコのダムを上回る高さのダムは、1594年にスペイン南部アリアンカに建設された、高さ43mの石積ダム、ティビ・ダムである。それまで約1500年余、スビアコのダムを上回るものはなかった。

スビアコには聖ベネディクトにちなんだ修道院がある。

 

1429年にモンテ・カシーノのベネディクト修道院で、羊皮紙23枚に書かれたフロンティヌスの手写本、「ローマ市の水道書」が発見された。

 

・トライアーナ水道

117年、帝国の最盛期に第13代皇帝トライアスにより建設される。

フロンティヌスの「水道書」以降に建設されたた 詳細は不明

水源はブラッチャーノ湖付近の火山地帯の湧水群

1612年ローマ法王パオロ 5世により復活され、パオラ水道と改名して、現在1日に9.5万立方メートルの水を ローマ市内に送水している。

文豪ゲーテが『イタリア紀行』の中で、この水道を讃えている。

 

・アントニアーナ水道(別名アレキサンドリア水道)

226年にカラカラ帝が、カラカラ浴場への給水のために建設。完成は彼の自死9年後

水源は火山地帯のアレッサンドリーナ湧水群

ローマ法王シクストゥス5世のもと1585年に再建。シクストゥス5世の洗礼名が、「フェリチェ・ペレッティ」であることから、フェリチェ水道と名付けられた。

 

フロンティヌスという人物

35年頃 出生

70年 市民係法務官に任命

74年 執政官に選ばれる。その後ブリタニア属州総督として功績を挙げる

78年 ブリタニアから帰還。「戦術書」執筆

84〜96年 「戦略書」執筆

その他測量術の2編の著作がある

98年 トラヤヌス帝の下、水道長官から2度目の執政官となる

100年 3回目の執政官としてトラヤヌス帝のダキア遠征に従う

103年あるいは104年 死去

 

道長官に任命されると、自身の執務マニュアルとして「ローマ市の水道書」を書き上げた。

「水道書」はローマ市の水道の管理のすべてを網羅した書籍である。この本は単にローマ市の水道管理に役立っただけではなく、古代ローマの広大な領土に敷設された水道の管理にも非常に有用なものであったと思われる。