
ル・ペン家の人びと
三世代でたどるフランス極右の実像
本間圭一 著
創元社 発行
2025年8月20日 第1版第1刷発行
国民戦線創設者のジャン=マリ・ル・ペン、その三女のマリーヌ・ル・ペン、そしてジャン=マリの次女の娘で、マリーヌの姪にあたるマリオン・マレシャルの人生の歩み、思想・政策、そしてインタビューを載せています。
はじめに
ジャン=マリは極右について「ファシスト、植民地主義者、帝国主義者、人種差別主義者、原理主義者、反動主義者を形容する際に使用される言葉で、政界においては常に悪意がこもってる」と批判し、自らは「国民右派」と称している。暴力を否定していることから、「右派ポピュリズム」と呼ぶケースも少なくない。
ただ既成の政治秩序を拒絶したり、思想や政策がより右派であり、現状において、多くの識者やメディアがそうした呼称を用いていることから、本書でも極右と表記する
第一部 ジャン=マリ・ル・ペン
フランス北西部ブルターニュ地方にある海の町ラ・トリニテ=シュル=メールで生まれた。2つの世界大戦の、戦間期の1928年6月20日のことだった。
姓のル・ペンは父方の苗字で、ペンはブルトン語で「頭」を指す。
1942年8月、定期的な除隊で自宅に戻っていた父ジャンが、漁船に乗り、漁に出かけていたところ、ドイツ製の機雷に引っかかり爆破され、死去した。
ジャン=マリは元々「ジャン・ル・ペン」という名前だったが、1956年1月の国民議会選挙で「ジャン=マリ」に変えた。母親の名前の「マリ」は聖母マリアに由来しており、選挙でカトリック教徒の支持を集めることができるという知人の勧めを取り入れた。
ジャン=マリの国民戦線での政治活動に大きな影響を与えたのが、1976年11月2日早朝に発生したテロ事件だった。パリ15区ヴィラ・ポワリエの自宅は 6階建てのアパートにあり、5階がジャン=マリ夫妻、6階がジャン=マリの3人の娘の部屋だった。娘たちが就寝中、20キロの爆弾が爆発し、5、6階とも大破し、部屋の一部が崩落した。同じ階に住む別の家族の赤ちゃんが建物から落ちたが 、マットにくるまっていたため、奇跡的に助かった。3人の娘も無事だった。
2007年の大統領選では極右は全体で多くはなかった。前回の大統領選で有権者の間にジャン=マリへの警戒心が強まったことに加え、サルコジがジャン=マリのお株を奪うかのように不法移民摘発を強烈に打ち出し、FN 票がサルコジに流れたのだろう。
ジャン=マリは、第二次世界大戦中にヴィシー政権を率いたペタン将軍に同情的である。著書の中で、ペタンには「4000万人の国民を生存させるという大きな責任があった」のであり、国土の北部をナチス・ドイツ軍に占領される中で、休戦協定によって国家を存続させた功績を認めている。
ジャン=マリのドゥ・ゴール(ドゴール)への評価が低いのは第二次世界大戦中に共産党を対独戦線に加えたことに加え、戦後のフランス領アルジェリアに対する不透明な態度であろう。アルジェリアで起こった「失望、絶望、反乱 見殺し、虐殺から逃れるためにアルジェリア在住フランス人が逃亡したことなど、全ての出来事は、ドゥ・ゴール将軍の裏切りから生まれている」と書いている。
第二部 マリーヌ・ル・ペン
1968年8月5日生まれ
小学校生活は幸せではなかった。ジャン=マリを父に持ったからである。通学していたパリ15区の小学校では、クラスメイトからは「悪魔の子」と罵られ、いじめの対象になった。
マリーヌは弁護士として移民の弁護について、政治的迫害や経済的理由でフランスに渡った移民個人は、弁護士をつけて適切に扱うべきであり、移民流入の責任は政治にあるとする立場だった。それはジャン=マリも同じ考えだった。
マリーヌ「父は、国家を損う現象だから移民と戦うが、移民の一人一人と戦っているわけではない、と言って私を育ててくれた。人々は個人としてその権利を守る必要があるが、政治的、社会的現象の組織としての移民は我が国に壊滅的な結果をもたらす。ジャン=マリ・ル・ペンは、自分の国で働いて得られる収入の10倍を働かずに得られる国に行きたいと考えるのは抑えられないから、移民一人一人を恨んではいけない、とよく我々に言っていた。責めるべきは移民一人一人ではなく、彼らを来させた政治家なのだ。」
第三部 マリオン・マレシャル
1989年12月10日、シングルマザーの子として、パリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レーで生まれた。
本名は、マリオン・ジャンヌ・カロリン・ル・ペンだった。
少女期のマリオンは、ル・ペン家の血を引く者として苦難を味わった。小学校は、地元サン=クルーの公立小学校に通ったが、ジャン=マリの孫としていじめられたり、からかわれたりし、時には身体的な暴力を受けることもあったという。
国民議会では、冷遇から始まった。他党の議員は、マリオンとの挨拶や握手を拒否した。最年少議員として、議長席で議長選の書記を務めた際、議長席前で次々と投票する議員は、マリオンと目を合わせなかった。
ゼムールは1958年、パリ郊外のセーヌ=サン=ドニ県モントルイユで生まれた。父親は救急医療隊員、母親は主婦で、いずれもアルジェリア戦争の際にフランスに渡ったユダヤ系だった。パリ政治学院を卒業し、パリの新聞社でジャーナリストとして働いた。次第に極右思想に心酔し、ジャン=マリとも知己を得た。はっきりとした物言いが受けて、テレビのコメンテーターとなり、特にイスラム教徒を敵視する言動で注目を集めた。
マリオンは自身が「王党派とボナパルト派の結合体である」と述べるとともに、自分が「国民派であり、帰属派であり、社会派である」との認識を示した。
ここでの王党派とは、10世紀に起源を持ち、ルイ14世らを輩出し、1830年の7月革命で退位したブルボン家の系統を指す。
またボナパルト派とは、フランス革命後に第一帝政の皇帝に即位したナポレオン・ボナパルトの支持者を意味する。
民主主義に至上の価値を置かず、強さや伝統を強く信奉する思考が伺える。
「フランスは私の国であり、共和国は一つの政体であり、同じ地図に置かれるべきではない」と述べた。
2017年3〜4月、国民戦線に投票した人に対し、「フランスを代表する歴史上の人物」を聞いたところ、ドゥ・ゴールがトップ63%で、ナポレオンが10%で、ジャンヌ・ダルク、ルイ14世、ペタン、ロベスピエールが続いた。
(ロベスピエールが意外ですね)
(問)2017年 なぜ政界から身を引いたのか。
(答)民間での経験を積みたかった。また国民戦線との間で、戦略面とイデオロギー面で意見が食い違っていた。
(問)2022年に再征服に入党したが、政界に復帰した理由は。
(答)政治的関心が完全になくなったことは一度もなかったし、自分の国の現状にも無関心ではない。ゼムールが立候補した時、私が当時主張していた政治的路線の核心を彼の中に見出した。
(答)私がマクロン政権を何よりも批判するのは、フランスと欧州における人口減少、第二次世界大戦後にこれほどの少子化がなかったことについて、マクロン政権は移民で補うことができると考えているからだ。
あとがき
移民・外国人の割合と極右政治家の得票率が相関するという考えは、あながち誤りではなかった。国立統計経済研究所の統計によると、移民の人口比は1999年に7.3%だったが 、2023年には 10.7%まで上昇した。一方大統領選決選投票における得票率は、2002年のジャン=マリは18%だったが 、2022年のマリーヌは 41%に増えた。
この相関は日本にも当てはまる。日本における外国人の人口比は2000年に1.03%だったが 、2024年には2.8%まで増え、過去最高となった。2020年代に入って移民規制を掲げる政党が相次いで創設され、国会で議席を得るに至った。