
中・ロ国境4000キロ
岩下明裕 著
角川書店 発行
平成15年3月10日 初版発行
中国とロシア、両国の関係は17世紀以来、様々な歴史的局面を経験してきた。とりわけ19世紀半ば、愛琿・北京の両条約によってアムール河北岸とウスリー河東岸を帝政ロシアに譲り渡して以来、中国東北部はロシアや日本によって「半植民地」状態に追い込まれていくが、まさに「侵略者」であった同じロシア人によって日本帝国から「解放」されるという複雑な経緯をたどる。
中国人たちの今も払拭できないロシア人に対する不満の源は、彼らが19世紀にロシアに押しつけられたとみなす一連の「不平等条約」だ。彼らは当時150万平方キロに及ぶ領土をロシアに奪われたと記憶する。
序章 国境確定の舞台裏
両国民の国境地帯への殺到は、ロシアにとって特別な意味をもたらすものだった。極東ロシアの人口は約700万人であるのに対し、中国東北3省の人口は1億を超えると言われ、ここには人口圧力の絶対的な格差が存在する。
第一章 図們江の夢の彼方
中露国境 4000キロの中で最も日本人になじみの深い場所である、中ロ朝三国国境地帯、その図們江流域一帯は、かつての満州入植ルートにあたり、1938年に関東軍とソ連軍が衝突した張鼓峰事件の舞台となった。
1994年から96年、中国人たちはビザなしで手軽にロシアに入国できる団体旅行に加わり、行方不明になるという方法を使って、ロシア国内に住み着いた。
中国人たちは 満州里、黒河、綏芬河や図們、丹東などの対ロ、対朝国境を見物するのが実に好きである。その多くは物見遊山以上のものではない。
第二章 ウスリー攻防線
ウスリー河で中ロが自国領として主張しあった島嶼は、ダマンスキー島だけではなかった。
ウスリー河はアムール河と接続する地点に未解決の「領土問題」、ボリショイ・ウスリースキー島を抱えていることを忘れてはならない。
第三章 アムール・ドミノ
アムール河流域では島嶼問題を巡る紛争ばかりが目につくが、それもまた一面的な見方である。ウスリー河とは異なり、(特に松花江との分岐点を過ぎた同江以西は)アムール河を挟んでロシアと中国の村がいくつも直視できるかたちで対になってベルト地帯を構成している。
ハルビンから注ぐ松花江とアムール河が合流するため、「三江口」の異名を持つ同江の港の歴史は古い。県誌によれば、1904年に早くもロシアとの交易が開始された。
第四章 最前線の光影
中ロ国境を旅するものが必ず一度は訪れる街、中国黒龍江省の綏芬河と黒河。これらの街は常に中ロ国境の代名詞として、また「担ぎ屋」の拠点としてマスコミなどで紹介されてきた。
中ロ国境を地帯を訪れるたびに痛感するのは、中国の変貌のすさまじさだ。
筆者は1994年2月に黒龍江省を訪れて以来、10年間の黒龍江省の変貌をよく記憶している。
1900年 7月、義和団事件のおり、ロシア側はブラゴヴェシチェンスクに住む中国人と共に64村に住む中国人を強制的に追放した。いわゆる「江東六十四屯事件」である。中国側は「六十四」という数字を過小評価とし、今なお「ロシアの蛮行」を詳しく記録する。
ブラゴヴェシチェンスクで事件を目撃した石光真清は「清国人三千人の虐殺」と呼ぶ。
綏芬とは満語で「錐」を意味するという。
石光真清はグロデコヴォの鉄道を建設する日本人労働者と偶然に遭遇する。
その労働者はポグラニーチナヤ[ポグラニチヌィ]隧道の工事に魂を打ち込んでいた。
街を訪れるロシア人が相対的に豊かなことも綏芬河の発展と関係がある。綏芬河は人口 16万のウスリースクやウラジオストクといった極東ロシア有数の都市と鉄道および道路で結ばれアクセスが良いばかりでなく、200km 先の沿海地方の港を通じて日本、韓国といった世界に向けて開かれている。
黒龍江省における対ロ開放10年の軌跡を振り返れば、綏芬河は一人勝ちの感さえある。2002年のインターネット速報も綏芬河の更なる発展を伝える。
東寧について特筆すべきは、黒龍江省では南部にあたり、その温暖な気候ゆえに野菜の産地として有名な点にある。東寧から輸出された野菜は、中国側の輸送会社がロシアがリースしたトラックを使って、ウスリースクやウラジオストクまで毎日運んでいる。
筆者の黒河での経験は綏芬河のそれとは著しく対照をなしている。この10年近く、黒河を定期的に訪問してきた印象を言えば、この街には長い間どこか未開放で殺伐した部分が残っていた。
街の雰囲気もユニークだ。94年の訪問の際、すれ違う中国人たちは私を見てロシア人だと思い、多くの少年たちは片言のロシア語で荷物運びを手伝おうと私に群がってきた。見知らぬ外国人はここでは全てロシア人だ。彼らは「おまえ」という目下の者へよく使う二人称で筆者に呼びかける。彼らは目上のロシア人が使う言葉をそのまま音で覚えたに違いない。
しかし今や人々はずいぶんさばけてきた。黒龍江省政府自身が対ロ国境地帯の観光価値を認識し、第三国人への開放姿勢を強めている影響も大きいと思われる。
黒河の発展を見る上で欠かすことのできないポイントがある。「組織貿易」や行政指導の計画とは別に自発的に成長を遂げた、いわゆる担ぎ屋の「シャトル(往来)貿易」である。ロシアでは「チェルノキ(織り機の行ったり来たりする杼が原義)」と揶揄されるが、中国側では「民間貿易」と肯定的に表現される。
黒河の街は現在、夜になるとオレンジ色の街灯がともり、公園の中心にある噴水は虹色に輝く。河畔を散歩する人々の賑わいはハルビンの松花江沿いにあるスターリン公園と同じだ。
2002年夏、対岸のロシアとのバランスの崩壊は、黒河とブラゴヴェシチェンスクの将来に暗雲を投げかけている。「金持ち」中国人に対する市民の不満は以前より強まっている。
第五章 国境ゼロ地帯
中ロが17世紀に公的に初めて接触した場所、これがチタ・内モンゴル国境であり、国境地帯は一面、平原で覆われている。
ロシア極東と異なり、チタに住むロシア人は中国人に「脅威感」を持たない。またこの地の中国人も(ロシアに)「領土を奪われた」という感覚を持たない。
モンゴル人民共和国の存在を第二次世界大戦後、不承不承ながらも中国が受け入れたことで、ここは中ロ蒙の三国国境点となり、同時に中ロ東部国境の始点とみなされた。
満州里を中心とする中ロ国境一帯を中国人は、「ユーラシアの大陸橋」と呼ぶ。この一帯がアジアとヨーロッパを繋ぐ要路であることに疑いはない。
筆者は2000年夏、チタ州を訪れた際、役人、軍人、ジャーナリスト、ガイドから市井の人々に至るまで「中国に脅威を感じるか」と尋ねて歩いたが、誰一人「脅威を感じる」と答えたものはいなかった。
終章 国境問題を越えて
ソ連崩壊によって中ソ国境は東部が中ロ国境として継承される一方で、西部においてはモンゴル西端の中ロ蒙三国国境から約50kmが中国とロシア、1700キロが中国とカザフスタン、1000キロが中国とクルク゚スタン(キルギス)、そして400km が中国とタジキスタンの国境となった。
筆者は国境を旅するわけを訊かれた時、多少、大げさな物言いだが、こう答えてきた。
「国境地帯に暮らすロシア人と中国人の関係の実態を知りたいだけだ。第三者として中ロ双方の相互不信の構造を客観的に見つめ、この国境地帯で二度と不幸が起きないように微力ながら力になりたい」
筆者は平和のための「知の担ぎ屋」と自称する。