
エスペラントの話
三宅史平 著
大学書林 発行
昭和57年2月20日 第3版発行
著者がこの本を書き始めたのは、1959年の初めということです。
第一部 国際語エスペラントの話
エスペラントの創案者ザメンホフは、1859年ロシア領ポーランドの小都市ビアユストクで生まれました。
この町は、元は農村の中心として、ポーランド人の地主たちの住んでる古い町でしたが、ドイツ人の技術者、ユダヤ人の商人、ロシア人の官吏、そして労働者などを多量に吸収していました。
彼らはポーランド人、ドイツ人、ロシア人、ユダヤ人と呼ばれるよりも、カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教、ユダヤ教徒というように分類され、それぞれはポーランド語、ドイツ語、ロシア語、ユダヤ語(イディシュ)によって結ばれあっていました。
これらの古典語こそ人類共通の言語として一番理想的なものではないかと思ったが、これらの言葉がどんなに難しいかということを身にしみて知り、世界の一般民衆のための共通語としては、全く不適当であるということを悟りました。
ザメンホフの家庭では、日常の言葉としては、ポーランド語が話されていました。家の周囲はユダヤ人区であって、そこではイディシュが話されており、学校での教育はロシア語によって受けています。父親がドイツ語の教師であったため、彼は早くからドイツ語を自由に話すことができました。それにギリシャ語とラテン語。これが中学生ザメンホフの言語というものの概念の根拠になっています。
これだけの知識から人類語創造に出発したことは、不幸にも、文法の構成にあたって、大きい回り道を強いられる結果になりました。
古典学校の5年生になると、ザメンホフは英語を習うようになりました。近代ヨーロッパ諸国語のうち、最も単純化した形を示している英語の学習を始めたことは、彼の世界語創造の事業に革命をもたらしました。
彼は自分のまとめ上げていた文法から、不必要な形態を探し出しては、気前よく投げ捨て始めました。
意識的に整理された接頭辞と接尾辞とが、彼の予想をはるかに上回って、大きな意味を持つものであることを、彼はやがて知りました。
古典学校を卒業すると、ザメンホフはモスクワ大学の医学部に入りました。医者になることは、その頃のロシアのユダヤ人にとって、ほとんど唯一の出世の道だったのです。
・世界中に散らばったユダヤ人を呼び集めて、新しいイスラエル国家を建国すること
・めいめいの住んでいる国の民族の中に溶け込むこと
ザメンホフは第3の道
・ユダヤ人は、ユダヤ人のまま、全ての民族と調和して、中立の基礎の上に、人類の団結を図ろうという理想案、を見出した。
エスペラント語は最初はリングヴォ・インテルナツィア(国際語) と呼ばれていました。エスペラントというのは発表する時のザメンホフの用いたペンネームで、「希望するもの」の意味。
それまでの「世界語」という名前が「国際語」と変わったことには、重要な意味があります。「世界語」というのは、世界中の人が、それだけを話すようになることを目指すものであり、「国際語」は外国人と話す時だけの用を足すものにしようというものです。
エスペラント発表の翌々年、1889年にはドイツのニュルンベルク゚市に世界最初のエスペラント会が生まれました。
ヴォラピュク
エスペラント以前に出た色々な世界語案に比べて、はるかに優れた案で、近代的国際語方式への一歩を踏み出した案だったが、エスペラントに比べると
・文法が複雑
・語彙も近代的方式の重要な原則である、「自然性」にかなり遠い
・創案者シュライエルが、権威の虜になって、絶対的な支配権を握り、使用者大衆の創造力が、言葉の進化に参加することを許さなかった
なため、にわかに衰えてしまった。
1905年、ドーバー海峡にのぞむフランスの港町ブーロニュ・シュル・メールで第1回世界エスペラント大会が開かれた。
その大会でエスペラント主義とは、諸国民の国内生活に干渉することなく、また現在ある民族を押しのけることを決して目的としないで、異なる民族の間に互いに理解しあう可能を与えるべき中立的人類語の使用を全世界に普及する努力であると宣言しました。
1908年から9年にかけて、エスペラントを改良したイド語をもって分派を立てようとした。
しかし運動として考える時、その支持者たちは改造主義者であって、明日にもイドの欠点を見つけて、それの改造に乗り出しかねない連中だった。
エスペラントはスターリンのソビエトで運動が禁止され、次いでヒトラーが出てドイツの運動も禁止されました。この2カ国はその時代の世界のエスペラント運動のうち、最も強固な部分に属していました。
エスペラントは平和と共に栄え、平和が脅かされるとともに衰える性質のものです。
ザメンホフは、エスペラントは自然語と同じ法則によって進化しなければならない、と考えていました。そしてその進化は優れたエスペランティストが創作や翻訳の著作活動の中で新しい形を示し、一般大衆がそれらの中から適当なものと、適当でないものとをより分けていくことによって行われるであろうと予測していました。
エスペラント文学の歴史
第1期試作時代 1880年から1905年頃まで
第2期古典時代 1905年から第1次大戦まで
エスペラントで長編小説を書き下ろした
第3期 2大戦の間
前期=第1次「文学世界」時代
後期
第4期 第2次大戦の後
日本人でエスペラントを初めて学んだのは、進化論を日本に初めて紹介した動物学者、丘朝次郎博士です。1891年ドイツに留学中に、偶然エスペラントの学習書を見つけて学習した。
日本では第1回世界エスペラント大会の開かれた1905年のあくる年、明治36年に早くも第1回日本エスペラント大会が東京で開かれています。
国内団体の会員の一番多いのは ユーゴスラビアで、それに次ぐのはポーランドでした。
ユーゴスラビアはチトー大統領が、かつてエスペラント語を学んでいたこと、また連邦を形作る各共和国の言語の違うことが、エスペラント運動に都合が良くできてました。
アメリカでは1960年から年数回、3〜4週間ずつ、続けて、VOAからエスペラントによる対外放送がされていました。
第二部 エスペラントの輪郭
語源的にはラテン系の言語から取った方が一番多く、フランス語、イタリア語、スペイン語などによく似ています。
スラブ系のロシア語やポーランド語から取り入れたものも、少しあります。
科学技術用語はギリシャ語から取り入れています。
民族特有のもので、世界の話題にのぼっているものは、それぞれの国語からそのまま取り入れています。
エスペラントを言語的に管理する機関アカデミーオがあります。
名詞、形容詞、動詞及び他の品詞から変わった(派生された)副詞には、全てそれぞれの品詞を示す語尾がついています。
言葉の組み合わせ例
(a) air lineは2語のままで扱う
(b) railwayはrailとwayをくっつけて書く
(c) chemin de ferのように三文字で書く
英語は(a)の形が比較的多く、フランス語は(c)の形が多いのが目立ちます。ドイツ語は(b)の形が非常に多いことが特徴です。この(b)の方式で新しくできた語を「複合語」と言います。
日本語もエスペラントも、複合語の大変多い言葉です。
詩、その他の韻文の中では名詞の語尾-oを省略することができます。
エスペラント語も、数・格を一致させるのは、語のシラブル数が多く、名詞や形容詞の語尾がそれぞれ一定の母音で終わっているので、一致させた方が 発音上の調和が良いし、名詞と形容詞とのかかり・かかられる関係がはっきりするところから、そう決めたものと思われます。