
六 サハリンで
チェーホフは約2ヶ月間北サハリンで暮らし、それから約1ヶ月間南サハリンに滞在した。
未公開写真ではピクニックの写真がある。
チェーホフとともに日本領事館書記官が写っている。
その草むらの中で、サモワール、酒瓶、つまみなども並んでいる。
酒宴の席にいるチェーホフというのは、これまで作られてきたチェーホフのイメージを壊すことになる。
また日露戦争、第二次世界大戦で戦火を交えた日本の外交官と親しく交歓しているチェーホフ像が、今日のソ連でもごく少数の国粋主義者たちの心境を逆撫でする恐れもある。
「当地のロシア役人たちにとって、日本領事館は刑務所や懲役の煩労などから逃れ、したがってほっと一息つける、好ましい、暖かい場所である」とチェーホフは書いている。
チェーホフは、久世、鈴木の両書記官がチェーホフの住居を訪れたことも記録してくれている。
チェーホフは、サハリン島の探検に果たした日本人の貢献を強調し、間宮林蔵の業績も高く評価するとともに、日本人が最初にサハリンを調査したことを力説し、ヨーロッパで日本人の貢献の意義が認識されていないと指摘する。
間宮林蔵の業績を高く評価し、世界に広く紹介したのはシーボルトである。
アイヌ人の問題ではチェーホフ は『サハリン島』において、日本人がアイヌ人を圧迫したことを指摘している。少数民族や差別の問題にも言及しているのである。
コルサコフ領事館関係の資料は、ほとんど保存されていない。
七 天国と地獄
チェーホフがウラジオストックにいたのはせいぜい一昼夜だけというのは、これまでの定説になっている。しかし実際には 5日間ほどウラジオストックにいた。
この5日間はチェーホフの伝記研究の中での、これから埋められるべき空白なのである。
1884年3月にウラジオストックが調べた人口によると、日本人の場合だけ女が多い。
そのうち大きな比重を占めたのが、長崎・天草出身の女たちであったことは言うまでもない。
日本にはコレラが流行っていたため、チェーホフは日本を素通りした。
彼は日本に寄れなかったことを、後々まで残念がった。
チェーホフはサハリンを「地獄」、そして帰国時に立ち寄ったセイロンを「天国」というイメージで捉えるようになる。
八 絹のイメージ
日清戦争、日露戦争で日本が勝てたのも、単に日本人の精神力によったのではなくて、製糸業を最大の輸出産業として外貨を稼いだことにより、相手国よりも性能の良い兵器を外国から購入したりして装備していたからである。
九 日本の香り
十 ヤルタの庭と桜
チェーホフ がヤルタの庭に植えた植物は159種類になる。
その中に熱心に日本産の植物も集めていた。日本から 苗を取り寄せて 植えたという柿の木もあった。
十一 最後の歌
チェーホフは臨終に際して、ひとりの水兵のこと、日本人たちのことを口走っていたのである。
十二 おわりに
チェーホフは少年時代から日本に関心を抱き、やがて日本訪問を計画し、日本人と親しく接し、日本に関する情報を熱心に読み、様々な日本の品物を集め、日本の植物を取り寄せて、育てた。当然、チェーホフの作品や書簡などにはそうしたチェーホフの日本のイメージが反映されざるを得ない。
補遺(一) チェーホフとクニッペル
チェーホフの妻であるオリガ・クニッペルの父親は若くして青雲の志を抱き、アルザス地方からロシアに移住したドイツ人技師である。18世紀末から19世紀にかけてのロシアは、西欧の野心的な青年たちにとって 広大なフロンティアであった。
補遺(二) 虚像と実像
チェーホフの人となり、ひいてはその作品については、固定的なイメージが作られてきたというのが実情であろう。誤解され、誤読されてきたというべきか。
チェーホフはいくら酒を飲んでも、翌日はけろりとしていられる体質の人であった。
チェーホフは1860年1月29日、アゾフ海にのぞむ南ロシアの港町タガンローグに生まれた。楽天的で陽気な南国人である。旺盛なバイタリティーの横溢した人であり、そのバイタリティの発露がシベリア横断によるサハリン旅行であろう。しかもシベリアやサハリンを旅行した時のチェーホフいたって健康に恵まれていたのだ。
チェーホフは、ロシア風の公衆浴場の愛好者である。