日本とロシア 忘れられた交流史(第2部)

第2部 加速する外交、多様化する相互認識

第20回 「ピョートル・モデル」――近代化の師としてのロシア

ピョートルの国から、プチャーチン使節団が長崎にやってくると佐久間象山たちは動き出した。今、外国から学ぶには海外に出るしかない、弟子の吉田松陰にロシアの船に乗り込めば海外に行けるとほのめかした。松陰は慌てて江戸を出発したが、長崎に着いた時にはロシア艦隊はすでに 出港した後だった。後に松蔭が米艦に乗り込もうとした事件は有名だが、実は最初は露艦の乗船を目指した。

 

第21回 加速する両国関係――開国後の「最初の危機」を乗り越えて

第22回 箱館と長崎――日露交流を担った町

箱館 ロシアの窓口となった町

長崎 東アジアの最良の港

 

第23回 日本における正教会 ⑴ ――ニコライの来日

第24回 日本における正教会 ⑵ ――知識人にとどまらないレベルの交流

第25回 ロシアを目指す日本人 ⑴ ――「密航者」橘耕斎、「外交官」志賀親朋

橘耕斎が日本脱出の際、樽の中に隠れたという説が有力だが、出国の際に日本側の取調掛が近づくと、赤毛のかつらをかぶり、伝染病にかかった水平になりすましたなどとも言われている。

 

1858年1月には洗礼を受けて正教徒となり、やがてロシア人女性と結婚して2人の息子ももうける。

 

志賀親朋は、幕末にロシアに関する情報の流れをうまくつかみ、日露間の人の流れの先頭に立った。自力でロシア語を修め、幕末から明治初期の日露関係史上の出来事にはほぼ例外なく登場し、両国にとってまさしく縁の下の力持ちだった。

しかし彼は、青年期にロシア留学を熱望したものの、その夢が叶わなかったという挫折を経験していた。

耕斎との面識もあったが、晩年の回想録では耕斎について厳しい言葉も残している。

例えば若い頃は「女郎買いはする酒は飲む博打は打つという三拍子揃った厄介者」だったと述べ、ロシアにあって「一向露語が出来な」かったと批判する。それは、同じように外交交渉の舞台に立つ身でありながら、片やロシアでの生活を経験できた耕斎に対する複雑な感情の表れでもあったのだろう。

 

第26回 ロシアを目指す日本人 ⑵ ――初めての「留学生」、市川文吉の活躍

第27回 ロシアを目指す日本人 ⑶ ――嵯峨寿安の「シベリア横断」

第28回 最後の平和的な国境画定――榎本武揚樺太千島交換条約

どうしてもサハリンを保有したい上に、ヨーロッパ方面で非常に複雑な情勢を抱えて多忙になったロシアは、所有するクリル列島を放棄するという結論に至る。1875年5月7日、日本名では「樺太千島交換条約」として知られる条約がサンクトペテルブルクで締結された。日本は樺太全島を放棄する代わりに占守島までの千島列島全島を獲得、日露国境は全線にわたって確定した。これが開国後の日本にとって事実上初の平等条約となった、という評価は、日本、ロシア、アメリカの歴史学では定説になっている。この条約は20世紀初頭まで30年ほど守られることになるが、現時点ではこれが最後の平和的な国境確定となった。日露戦争以降には日露間の国境は戦争によって書き換えられるパターンが繰り返される。

 

第29回 宮廷外交 ⑴ ――アジアを外遊するロシア人皇子たち

アレクサンドル大公は海軍士官だった。その時長崎に長期滞在したが、そこの遊女と契約を結び、一時的な結婚をしていた。その妻から日本語も勉強したが、1887年の天皇皇后らとの晩餐会の際、その「場違いな 方言」の日本語を話して、周りは爆笑に包まれた。

(なんとなく、ほのぼのとしたエピソードですね)

 

第30回 宮廷外交 ⑵ ――「ツァーリ」の国、「ミカド」の国

第31回 大津事件――ニコライ皇太子来日と襲撃の衝撃

第32回 メンデレーエフ家の謎――ロシアの偉大な科学者と、日本人の子孫

ロシアでは「長崎からの少女」という歌がよく知られている。1910〜20年代に作られたこの曲はソ連時代末期を代表する歌手ウラディミール・ヴィソツキーやその他たくさんの有名歌手によって歌い継がれている。歌詞は何度も変わったようだが、盤根錯節の人生を歩んだ少女の心情が歌われている。

タカのような長崎出身の少女の夢と挫折の物語への同情は、ロシアの日本認識の一部になっていると言っても良いかもしれない。

 

第33回 革命運動家と明治日本――ノーベル賞学者メーチニコフの「兄」の功績

第34回 日露戦争――「第0次世界大戦」

第35回 日露同盟の興亡――日露協約、第一次世界大戦ロシア革命

日露戦争からたったの10年で両国の関係は著しく深まり、協力し合うまでになった。そして 1916年7月3日に締結された第4回日露協約により、日露同盟が正式に誕生した。双方とも国内では様々な勢力が強い不信感を抱き続け、「同盟国」観と「仮想敵国」観が交錯してきた。しかし、公式には、この同盟は400年にわたる日露交流史の中で、両国の外交関係の頂点として位置付けることができる。

 

第36回 日本研究の勃興――東のスパルヴィン、西のポズドネーエフ

1855年にはサンクトペテルブルク大学にアジア研究を行う東洋学部が創立されたが 、日本語が教えられるようになったのは1870年秋からだった。しかも、独立した日本学科があったわけではなく、中国・モンゴル学科の一科目だった。とはいえ、パリとウィーンに次いで、日本語の授業が大学で行われた都市としてはヨーロッパで3番目という早さだった。

初めて教師を務めたのは、ロシア外務省職員の橘耕斎。

 

20世紀初頭、ロシア帝国の東端と西端で、日本学に大きく寄与した学者が教壇に立った。ウラジオストクではスパルヴィン、サンクトペテルブルクではポズドネーエフが中心となり、後にロシアだけではなく世界の東洋学・日本学を担っていく多くの若手の研究者が、彼らに自らの夢を託すことになった。

 

最終回 ロシア日本学の黄金時代――粛清、亡命、波乱の時代を生きた天才たち

20世紀前半、ロシアの日本学は飛躍的に発展して、新しい段階に入った。特に1910年代前半、日本研究の舞台には多くの若手学者が登場し、輝かしい業績を残していくことになる。まさに「ロシア日本学の黄金時代」だった。

 

おわりに 残された課題――交流、そして探究の旅は続く

本書に紹介しきれなかった、いくつもの課題

・複雑な関係を展開した日露両国の間で板挟みになってきた、先住民たち(アイヌなど)の運命

・日本近代文学を理解するためには欠かせない、ロシア文学と日本文学の交流

ウラジオストクの日本人街をはじめとする、ロシア極東の日本人ディアスポラ

・ロシアから来日した、民族的・宗教的背景が異なる多様な人々

ロシア革命がその後の日露関係と東アジア全体にもたらした絶大な影響、1917年以降の交流関係