
ロシアの空の下
中村喜和 著
風行社 発行
2014年3月1日 初版第1刷発行
この本も橘耕斎について調べるために借りたんですが、榎本武揚や漂流民たちの話も興味深かったです。
一 旧教徒たち
『ロマノフカ村の日々』が世に出るまで
旧教徒というのは、17世紀にロシア正教会の総主教ニーコンが教会儀礼の改革を断行した時、それに従わなかった人々である。
その旧教徒が沿海州からさらに満州へ再移住する契機になったのは、ソビエト政権下で1930年を挟んで2〜3年の間に強行された農村の集団化政策だった。
その結果として生まれたのが、満州のロマノフカ村である。
国境にこだわらなかった旧教徒
旧教徒にとってはロシアの最果ての地が天国だった。その名も「白水境」と名前までついていたことがわかっている。
旧教徒が携わった仕事の中で函館市民に最も深い感銘を与えたのはパン売りである。大正13年(1924年)4月の函館新聞はカルーギンという姓の旧教徒一家の生活ぶりを取り上げている。
(林芙美子の樺太旅行に出てきたロシア人(ポーランド人)のパン売りを思い出す)
ルーマニアのリボヴァン
リボヴァンはドナウ川のデルタの南北に存在した旧教徒
二 漂流民たち
大黒屋光太夫の足跡をたずねて
1965年の夏、著者たちによる、漂流民を調査するロシア旅行
イルクーツク は光太夫一行に何かとゆかりの深い場所だった。ここには 1750年代から日本語学校が置かれていた。(その前身は1730年代からペテルブルクにあった)
光太夫たちより40年ほど前に、下北半島佐井村の竹内徳兵衛の持ち船である多賀丸が難船し、下北の船乗りたちがイルクーツクへたどり着いた。彼らはここで日本語を教えることとなった。
ゴンザとソウザは佐井の漂流民よりさらに以前の1730年代に、ペテルブルグで暮らした薩摩出身の船乗りである。このうちゴンザは天才的な青年で、1739年に 22歳で亡くなるまでに、非常に大部のロシア語=日本語辞典や 日本文法書や会話集などの著述を残した。
光太夫の民謡は俗に「ソフィアの歌」とも呼ばれていて、『北槎聞略』では ソフィア・イワーノヴナという若い女性が光太夫の身の上に同情して作詞作曲し、大いに流行したかのように述べられている。
その元歌はウクライナの民謡であること、キーエフ方面から首都へ出稼ぎに来た若者たちによって曲が伝えられ、彼らの心情を歌った新しい歌詞がつけられてロシア中に広まったことなどもここで教えられた。
夏至は過ぎたとはいえ、レニングラードにはまだ白夜が残っていた、日の入りと日の出の間隔が極端に短く、 屋外では夜を徹して新聞が読める程度の明るさがただよっていた。 大通りや広場には真夜中になっても人通りが絶えなかった。「あなた方はいつ 眠るのですか」と研究所の知人の誰彼に尋ねると、決まって「私たちは冬の間たくさん眠っておくのです」という答えが帰ってきた。
『環海異聞』の中の人情
伊勢の漂流民 大黒屋光太夫の『北槎聞略』
仙台の漂流民 若宮丸の『環海異聞』
共通点
・地元の有力大名の領地から江戸へものを運ぶ貨物船
・冬の初めに西風に流された
・アリューシャン列島に流れ着き、シベリアからヤクーツク、イルクーツクそしてペテルブルグへ向かう
・故郷を船出してから帰国するまでほぼ11年
・漂流民の一部が正教徒になっている
相違点
・伊勢の方が11年早い遭難
・伊勢の方はラクスマン、若宮丸の方はイルクーツクの商人が庇護者
・『北槎聞略』が初めから幕府の意向によって秘密文書とされたのに対して、『環海異聞』は秘密文書扱いされなかった
1799年に発足した露米会社と呼ばれる国策会社
これはロシアとアメリカが手を繋いで作ったという意味ではなく、アメリカにある ロシア領、アリューシャン列島だけでなくアラスカまでを含むロシア領を経営する会社
『環海異聞』の編者大槻玄沢は同郷人、いわば身内だから「愚陋無識の雑民」と漂流民を呼んだのでは?
大槻玄沢らは世界一周など、自分には到底できない体験をした漂流民に対して、無学だと蔑んでいるなんてことは全然なく、むしろ畏敬の念や羨望の感情を持っていたに違いない。