
本の都市リヨン
宮下志朗 著
晶文社 発行
1989年12月20日 発行
シンプルな題名にひかれて読んでみました。
リヨンの「書物の世界」の光芒を、当時の社会的、経済的背景とともに物語っています。
リヨンには2回ほど行ったのですが、この街にこのような歴史があるのは知らなかったです。
序章 明治四〇年、リヨンの荷風
16世紀、フランソワ・ラブレーの『パンタグリュエル』『ガルガンチュア』を出版した都市が、首都パリではなく、リヨンだった。
当時のリヨンは、「フランス第二の眼」と呼ばれ、商業の都市として繁栄していた。
リヨンの「印刷・銀行博物館」はクレディ・リヨネの気前のよさの賜物だった。
リヨンにおける「本の街」は、パリのような大学地区でなしに商業地区のど真ん中に誕生し、16世紀、印刷・出版業は銀行業と密接に結びついて発展していく。
しかし金融・出版都市としてのリヨンは、16世紀末には少なくとも歴史の表舞台からは消えてしまう。
金融都市としては荷風の時代も生き残っていた。
ルネサンス期のフランス社会は、パリ・リヨンの二都市を中心として回っていた。
ルネサンス期のリヨンは、イタリア人を中心とする外国人銀行家が活躍する金融都市だった。
その経済活動は、1463年から始まった年四度の〈大市〉に集約されていた。
1473年、ソーヌ河とローヌ河に挟まれた中洲、商業的・世俗的な界隈で、リヨン出版業は産声をあげた。
Ⅰ 大市の都市
1 ヨーロッパ商業の四つ辻
シエナはリヨンにも似て中世に銀行業で栄え、フィレンツェと覇を競った歴史を秘めている。
為替決済や貸借清算が行われていた「信用の大市」は十三世紀にはシャンパーニュ、そしてジュネーヴ、それからリヨンに移る。
現在はスイス、フランスの国境は ジュネーブのレマン湖であるが、 15世紀はリヨンのすぐ東側がそうで、 この都市はまさにイタリアからの門戸という感じだった。
リヨンはフランスにおけるタックスヘイヴン都市として、商品と資本と信用とが流れ込む聖域になった。
公現祭 (1月) 、復活祭 、聖母被昇天の祝日 (8月)万聖節(11月)とリヨンの大市は年に4回開かれた。
アルプス超えやオーヴェルニュなどの山がちな地方との輸送には、頑強なラバが欠かせない。
リヨン近辺における陸上輸送において、四輪荷車、二輪荷車もあるが、ラバが最も経済的な輸送手段だった。
遠距離輸送の場合はラバによる「隊商」が組織された。
フランスにおける河川輸送は、我々の想像以上に重要なものであった。
宿屋は商品の保管・受け取りの便宜をはかり、また手紙類の取次もする。旅人の乗ってきた馬の世話をするばかりか、馬を預かったり、貸したりもした。
つまり当時の宿屋とは、物や情報ネットワークの結節点を占めていた。
リヨンの大市とは、当初からフランス国王とイタリア人商人とのいささか奇妙な結託により支えられていた。
2 決済の大市
手形の引受けが終わり、為替ルート・次回の支払い日等が決まると、大市は最終段階に入る。3日後の支払日が それである。
商人たちは帳簿を手に集まり、貸借を相殺し合う。 各地で振り出された手形、 様々な金額の記された手形があっという間に相殺されて、「陽光の下の雪さながら」溶けてなくなる。現金のやり取りなどはほとんど必要なかったのである。
しかし どうしても 相殺できない場合は、この日まで何とか資金をかき集めなくてはいけない。銀行家に借金したり、それでもダメなら高利貸しのところに出向いたり、あるいは手形の割引をしてもらったりしたのだろう。
為替レートが決められると、飛脚が直ちに各地に向けて差し向けられ、全ての取引市場に決定事項が伝達される。
リヨンはローマの教皇庁からフランスに送られてくる勅書・覚書・聖職禄授与書の集配センターでもあった。
このローマ=リヨン間については、教皇庁輸送便がイタリアの銀行家等の手により組織され、両都市は何と1週間で結ばれていた。
ラブレー にしろ、エラスムスにせよ、 各国を股にかけた知識人たちであったから、 書斎の人というよりむしろ永遠の旅人、というのが実像に近い。ユマニスムとはコスモポリタニスムの別名なのだ。
16世紀半ばのフランスには銀行が209存在し、そのうちなんと169がリヨンに置かれていた。
ルネサンス時代の国民団とは、国の中の国、都市の中の国であった。その上彼らは国境を超えたネットワークを形成して市場を操った。極限すればリヨンもその戦略的拠点の一つにすぎない。彼らは為替広場を中心とする狭い舞台の上で、ヨーロッパの全方位を睨みながら、金融操作という帳簿上の芝居を演じたのである。
新作の書籍の晴れの舞台は、現在のように書店の平棚でもなければ、書評欄でもなく、何よりもまず書籍市という流通の場だったのである。
3 「リヨン鳥瞰図」を読む
ローヌ橋を渡り、コンフォール通り、メルシエール通り界隈へ、 そしてソーヌ対岸の為替広場まで歩いてきた。この道筋こそ、ルネサンス期のリヨンの活気あふれるメインストリートであった。