J.S.バッハ 岩波新書 評伝選

J.S.バッハ 表紙

J.S.バッハ

(特装版)岩波新書 評伝選

辻荘一 著

岩波書店 発行

1994年8月22日 第1刷発行

(本書は1982年11月22日に岩波新書(黄版)として刊行されたものです)

 

序章 バッハが世に出るまで

ルター派は教会に集まる信徒が積極的に礼拝に参加できるように、信徒が歌う歌が生まれた。

カトリック教会では原則として信徒は歌うことなく、聖歌隊の歌に耳を傾けていた。

 

ルター派はドイツ語の典礼文を作った。これは信徒が積極的に礼拝に参加することができるようにとの目的である。これに付随してドイツ語の讃美歌を作り信徒に与えた。

 

カトリック教会は反宗教改革の一つの方途として、教会音楽で人の心を動かそうとするようになり、大教会の中では大編成の合唱団、合奏団を用い、その奏楽をきくだけで、天国にある思いをさせる教会が多くなった。

 

放浪音楽芸人を自分の城に呼び込んで自分の歌の伴奏をさせたり、 時にはご法度のダンスの曲をやらせたりしてるうちに、いつでも役に立ってくれるように召使いの端くれにしておき、門番、掃除夫、夜警などを兼ねさせておく。 短絡するならこれが宮廷音楽家の始まりである。

 

中世も末になるとほうぼうの町が領主の細かい干渉を受けないで、 独自の自治体になり、その主だった人が 期限を定めて議会を組織して町の世話をするようになる。この世話役をラート、 相談役という。放浪の楽人のあるものはラートの常雇いになって町の一角に居を与えられ、催しがある時には必ず奏楽し、固定給をもらう。これが町楽士である。

 

ツンフト

中世の半ば過ぎから工業者、 商業者の同業組合によって、 利益と特権を守り、 跡継ぎを養成し、 お互いに戒め合って製品の向上、 取引の公正を図るはかようになる組織

 

第一章 青年オルガニスト、バッハ

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (1685-1750)はアイゼナッハで生まれた。

この町は音楽好きの人なら必ず知っているヴァーグナーのオペラ「タンホイザー」の舞台ヴァルトブルグ場を仰ぎ見る位置にある。

この古城は宗教改革者のルターが1521年5月、かくまわれた場所である。

 

第二章 ヴァイマルの若き楽匠  心とわざの成長

第三章 ケーテンの宮廷楽長

1812年ベートーベンとゲーテがカルルスバードで会い、ともに散歩している時、 皇帝の一行に出会った際 、ゲーテは道の脇に寄って敬意を表したにも関わらず、 ベートーヴェンは道をゆすることなく、かえって皇帝のおともが道の脇に寄らなければならなかったという話が伝わってる。

 

第四章 カンタータ の春 ライプツィヒ第1期、1723年から29年まで

バッハが28年間カントルの職にあった時期を3つに分けると

・教会カンタータに専心していた時期

・一般音楽を作曲し、いくらかカンタータ作曲の手を抜いた時期

・ほとんどカンタータを作曲せず、作曲技法の模範とも言うべき曲に心を傾けた時期

 

1729年の最大の収穫は「マタイ伝受難曲」初演である。これはバッハやライプツィヒ市民にとって最大の収穫であるばかりではなく、広く人類にとっての大収穫である。

 

マタイ伝福音書

ユダヤ人で早くキリスト教に改宗した人たちのために書かれたものであるから、旧約聖書に現れたメシア、すなわち救世主出現の予言を踏まえて、イエスキリストの言行を詳しく記し、それが旧約聖書の予言にかなってることを分からせるようになっている。

ヨハネ福音書

キリスト教の中に異端が生じ始めたのを知って、神学的、哲学的にキリストの言行を記した著作である。

 

第五章 教会から街頭へ ライプツィヒ第2期、1729年から39年まで

バッハまた風俗詩人でもあった。1734年頃に作られた、いわゆる コーヒー・カンタータはその頃盛んになったコーヒーを愛してやまぬ娘と父とのやり取りを歌った曲である。

 

第六章 自適と名誉と終焉  ライプツィヒ第3期、1739年から50年まで

第七章 バッハの復活とその背景

多くのバッハ 評伝で、彼の作品はその死と共に忘却の淵に進んだかのように書かれた理由

・すでに彼の晩年には啓蒙思想が保守的なルター正統派の教会にも浸透し、礼拝は説教、それも道徳を解くようになり、カンタータなどは歌われなくなった。

ヘンデルに比べて彼の行動範囲は狭小で名声も遠くに響かなかった。

 

ベートーヴェンが 「バッハ (小川)ではなくメーア(大海)」だと言ったことが伝えられている。

 

補論 バッハの宗教心をたずねて

西洋、東洋の別なく聖数と言われる数がある。その代表は 3と7で、これらの2乗、3乗はもちろん、その倍数までも特別の意味を持つと観念されていた。