プリンス昭武の欧州紀行 慶応3年パリ万博使節

プリンス昭武の欧州紀行 表紙

プリンス昭武の欧州紀行

慶応3年パリ万博使節

宮永孝 著

山川出版社 発行

2000年3月30日 第1版1刷発行

 

この時の話は渋沢栄一大河ドラマ や書籍『渋沢栄一、パリ万博へ』で少しは知っていたのですが、この本で徳川昭武及びその一行の足取りをきっちりと辿ることができました。

 

序章 親善大使、徳川昭武

当時 数えで14歳の昭武の任務

・パリ万博への参列

・条約締結国を親善歴訪し、外交上の親善をはかるかたわら、ヨーロッパ文明を視察し、見聞を広め、それを近代国家建設に役立てる。

・パリに3年から5年ほど滞在し、ヨーロッパの進んだ人文自然科学を学習する。

 

渋沢栄一は勘定方とおよび庶務を担当し、パリ滞在中経済の仕組みなどを学ぶことに努め、各国を巡遊中は、近代的な産業設備や経済制度などを熱心に見聞した。

 

イギリス政府の回し者として、シーボルトは一行の動静をつぶさに観察し、それを逐一イギリス外務省のハモンド外務次官に報告した。彼の一連の情報活動は、ついぞ発覚することはなく、維新後こともあろうに彼は新政府に仕えた。

 

1章 フランスへ

昭武の警護役として渡仏した水戸侍の多くは、融通の利かない国粋主義者であり、パリの昭武の館では髷を結い、刀を差し、玄関に宿直した。

 

訪問時スエズ運河は開削中であった。完成するのは1869年である。

 

2章 フランスにおける昭武

佐賀藩のパリ万博出品には野中元右衛門という薬屋がいた。

体が丈夫な方ではなかったがパリ万博に参加した。

45歳でパリで亡くなる。

彼の墓はペールラシューズ墓地に現存する。

 

パリ万博 において薩摩藩琉球王国の名を表示し、さらに島津家の家紋の旗章を掲げていた。

このことは日本政府でもある幕府の権威や国体そのものをないがしろにしたものだった。

 

我が国の産物がヨーロッパ人の目に触れたのはパリ万博が最初でなく2度目だった。

1862年のロンドンでの第4回目の万博が初めてだった。

 

幕府から旅行免状をもらって初めて海外に巡業に出たのはコマ回しの 松井源水の一座であった

またアメリカ経由でパリに高野広八の一行もやってきた。

広八の色事については克明につづられた道中日記が如実に物語っており、とても面白い。

 

3章 ヨーロッパ巡歴

スイスのバール(バーゼル)では、ライン河畔の「トロワロワ」に宿泊した。

 

親仏派の栗本鋤雲のフランス派遣の使命

徳川幕府の地位や大君(将軍)の権威を日本と条約を結んでいる国々に宣伝し、日本 を実際におさめているのは大君であることを広く知らせる。

・日仏間の親善のさらなる促進、フランス留学生の増派、昭武の各国巡歴を縮小し、 パリ留学を確実なものにする。さらにフランスにおける借款を改めて提案する。

 

一行はマインツから ライン下りをしてボンまでの200キロの船旅における景色を楽しんだ。

 

北イタリアのトリノは13世紀にフランスのサヴォイアがおさめるようになって以来 、フランス文化が濃厚な町である。

 

マルタ島で昭武が公子として扱われたのは、 シーボルトがイギリス外務省に対して働きかけたひそかな企みが見事功を奏したものである。昭武を王侯として厚遇しイギリスの圏内に引きいれようと計ったものである。

 

マルセイユで艦は港口に近づき、30分後にはタグボートに曳かれジョリエット係船池に入った。

 

幕府派遣の欧州留学生はすでにオランダ、イギリス、ロシアにおいてそれぞれ語学を中心に専門とする学科の修業につとめていたが、本場におけるフランス学の研鑽が一番遅れていたと言える。

 

先にベルギーのリエージを訪れた時にも兵器工場を見学したが、規模の点から言えば イギリスのウーリッジ の方がはるかに巨大だった。

 

昭武の指導者となったヴィレット中佐は決して悪い人間ではなかったが、「名誉あるしかも短気な人で、我が言葉を天下の至言というような顔をして 、ナポレオンを傘にきて、 さすが民部様へ失礼はなかったものの、お付きの私たちはアゴで使い回して悪く言えば奴隷扱いだから、常々悔しくてならなかった」(渋沢談)

 

昭武が受けた科目

フランス語、画学(ジェームズ・ティソーによる)、乗馬・兵式体育、射撃、礼式

 

水泳は父烈公(徳川斉昭)が盛んに奨励していたから、これも幼少から水府流を習ったし、得意だったらしい。

 

昭武は作文力がついて日記をフランス語で書くようになった。

 

栗本の見るところ、フランス留学生はロンドンにいる学生とは異なり、学力は劣り「みかんばかり芋同様の小粒ばかり」と酷評している。

 

4章 故国の政変

老中からパリの昭武に当てて突然、日本の情勢について電報が打たれた。これはヨーロッパにいる日本人に発信された電報の嚆矢となるものであった。

 

昭武は毎日乗馬の稽古や体育、フランス語などに精を出していたが、そのきつい日課に音を上げていた。

 

3月13日には勝海舟西郷隆盛が会見し、p200

山岡鉄舟もいたと思います)

 

6月11日昭武は午後から競馬場(ブローニュの森)に出かけ繋留気球に乗った。おそらくヨーロッパで気球に試乗したのは、昭武が第1号であろう。

 

昭武らはシェルブールで、ナポレオン1世銅像を見る。皇帝の脅すような手つきはイギリスをさしているため、この像はあまりイギリス人に人気がないといった説明を受ける。

 

カンペールを発し、南に下るとき、ヴィレット中佐は昭武に「この小さな町に大きなイチジクの木があり、その葉は 繁茂してその影6000メートルある」と語った。

(本当でしょうか?)

 

昭武は10年後、再度フランスの土を踏む。

 

帰りの船で薩摩のそばを通った。昭武は「ろくでなしの薩摩の沿岸を通過した」と日記に書いた。