江戸無血開城 本当の功労者は誰か?

江戸無血開城 表紙

江戸無血開城

本当の功労者は誰か?

岩下哲典 著

吉川弘文館 発行

2018年(平成30)7月1日第1刷発行

 

本書では、山岡鉄舟高橋泥舟を中心に、江戸無血開城の真実を物語っています。

 

「江戸無血開城」の誤解

慶応4年(1868)3月9日の 山岡鉄舟西郷隆盛駿府会談で、江戸無血開城はほぼ決まった。

 

江戸無血開城で最大の恩恵を被った徳川慶喜が自身の助命と家名存続の「一番槍」は鉄舟であると認めていた。

 

泥舟が鉄舟を慶喜に推薦した。それが実現したのは泥舟が慶喜から全幅の信頼を得ていたからである。

 

絵画「江戸開城談判」には鉄舟もいたが、描かれていない。

絵画資料の印象操作は恐ろしい。

 

「江戸無血開城」の前史

海舟の出自は、泥舟や鉄舟に比べると、きわめて低いと言わざるを得ない。

出自の身分で言えば 、低い方から西郷、海舟、泥舟、鉄舟、慶喜となる。

 

(海舟は)咸臨丸を指揮して太平洋を横断した p69

(海舟は咸臨丸のナンバー2だったが、指揮はほとんどしておらず、船酔いかスネていたことにより、船室に閉じこもっていたのでは?指揮は木村摂津守やブルックの力が大きいのでは?)

 

西郷は 明治20年代前半まで ロシアで生きてると一部の人々には信じられていた。

 

この時期、城下町そのものが 外国船に砲撃されたのは薩摩藩の鹿児島と長州藩支藩長府藩の下関だけである。そうした点でこの薩長二藩の危機感は尋常ではなかった といえよう。

 

大政奉還は朝廷側の表現であろう。そしてひとたび 逆賊となった慶喜側が恭順してから、自らの維新への功績を主張した際の表現でもあろう。

真の意味での「大政奉還」は後の「王政復古」で初めて実現したのであって、慶喜の上表は 大政奉還の上表ではなく「 政権奉帰」の上表、あくまでも自分が政治に関与しようとする建白であったことは十分に記憶されるべきである。

 

「江戸無血開城」の真実

 

「江戸無血開城」後史

廃藩置県静岡藩がなくなった後、泥舟は一切の官職・役職につかなかった。泥舟としては 慶喜と共にこの世を遁れたのだから、慶喜が隠居・謹慎してるのに、恭順を強く勧めた自分が世に出るわけには決していかないという心情であったようだ。

 

明治14年の勲功調査においても泥舟は勲功書も出さず、宮内省に出頭もしなかった。こうした点では泥舟は 終始一貫徹底しているのである。

 

文久期の攘夷運動の高揚の中で、浪士に関わり、そのために 失脚した泥舟・鉄舟もついにはいわゆる「大政奉還」 「政権奉帰」 「政権返上」に大きく寄与することによって維新の実を上げ、 それを心の糧として泥舟は明治を隠士として過ごし、 鉄舟は明治天皇の師匠(侍講)として維新の精神を伝えながら死んでいったのである。

 

あとがき

海舟は 著者が勤務する東洋大学の創立に大いに関わっている。歴代関係者の中には海舟の恩を消して忘れてはならないという人もいるくらいだ。