みみずくは黄昏に飛びたつ 村上春樹・川上未映子 著

みみずくは黄昏に飛びたつ 表紙

みみずくは黄昏に飛びたつ

川上未映子 訊く

村上春樹 語る

川上未映子 村上春樹 著

新潮社 発行

2017・4・25 発行

 

第一章 優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない

ある評論家が、きっと村上春樹はノートにいっぱい比喩書き溜めているはずだ、って言ってたけど、そんなことはない。そんなノートはありません。パッと出てきます。必要に応じて、向こうからやってくるみたいな感じで。

 

中上健次氏と村上春樹氏は対談を行っている。

対談の後中上氏がこれから一緒に飲みに行かないと村上さんを誘ったが 、村上さんは断っている。

 

第ニ章 地下二階で起きていること

オウム真理教の実行犯の人たちを見ていると、彼らもやはり罠にはまった人たちだなという気がするんです。罠に嵌るのは自己責任だと言われればそれまでなんだけど、 でも、そうじゃない。 罠というものは、嵌まる時はすぽっと嵌っちゃうんですよね。

 

トランプはデマゴーグまでとは言わないにせよ、 古代の祭司みたいな感じで、トランプは人々の無意識を煽り立てるコツを心得ているんだと思う。そしてそこでは Twitter みたいなパーソン・トゥー・パーソンのデバイスが強力な武器になっている。

 

普通のピアニストって右手と左手のコンビネーションを考えながら弾いているじゃないですか。ピアノ弾く人はみんなそうしてますよね。 当然のことです。でもグレン・グールドはそうじゃない。 右手と左手が全然違うことをしている。それぞれの手が自分のやりたいことをやってる。でもその2つが一緒になると結果的に見事な音楽世界がきちっと確立されている。

 

もう40年近く一応プロとして小説を書いてますが 、それで自分がこれまで何をやってきたかというと、 文体を作ること、ほとんどそれだけです。とにかく文章を少しでも上手なものにすること、自分の文体より強固なものにすること、おおむねそれしか考えてないです。

 

どうして 読者がついてきてくれるか分かりますか?それはね、僕が小説を書き、読者はそれを読んでくれる。それが今のところ、 信用取引として成り立ってるからです。これまで僕が40年近くを書いてきて、決して読者は悪いようにしなかったから。

 

トロントの書店で盗まれる本は村上春樹が圧倒的に多いんだって。とにかく万引きが圧倒的に多いみたいです。

 

『若い読者のための短編小説案内』で取り上げた、いわゆる「第三の新人」の作家の作品

兵隊に取られ、戦争に巻き込まれて、結構ひどい目に遭わされて、戦後の空っぽの荒廃の中にほとんど丸裸で投げ出されて、肺病なんかまで患って、その中で 何とか生き延びていかなくちゃならないという、言うなれば ギリギリのところで書かれてる作品が多いんです。だから屈託みたいなものはあっても、内面的に グジュグジュしているような 暇がない。そしてまた軍国主義から解放され、今からは民主主義みたいなことでなんだか妙にカラッとしている。 そして政治的にはほとんどしらけている。僕はそういう感覚が好きで 「第三の新人」を取り上げたんです。 日本近代文学史の中でほとんど 唯一 、僕が積極的に評価しているグループです。

 

僕はだんだん 三人称の方に行きたいなと思っていたんです。いつまでも一人称を使っていたくなかった。 そこからしばらく離れたかった。あまり僕と役柄を一体化されても困るなというのがあった。渥美清と寅さんみたいに。

 

僕のイデアはそれとは無関係です。

(この場面の川上さんの狼狽ぶりが面白かった)

 

例えば占いをする人がいますよね。そういう人たちがもともとある種の特別な能力を持っているというのは、 多分 間違いんところだと思うんです。でもそれを職業にして、誰かが相談に来て答えなくちゃいけない時に、メッセージが全く降りてこないと商売にならないですよね。 そこで何が問題かというと、 それが自発的なものじゃなくなる場合があるということです。 いつもいつも雷がうまく落ちてくるわけじゃないから。 そしてそういうちょっとしたごまかしみたいなことをやってるうちに、それなりの「営業」のテクニックができてくる。

でも小説家というのは、 締め切りさえ作らなければ、自発的に好きなように小説を書いたり書かなかったりできるわけです。

 

長編小説というものは、最終的にはポジティブなものを残していかなければだめだと僕はその時に思ったんです。もし仮にそれが悲劇的なエンディングであったとしても、 それは次の段階にしっかりと繋がっていくものでなくてはならない。

 

第三章 眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい珍しい

文章が変われば、新しくなれば、あるいは進化していけば、 たとえ同じことを何度繰り返し書こうが、それは新しい物語になります。 文章さえ変わり続けていけば、作家は何も恐れることはない。

 

スプートニクの恋人』を書いた時は、 文章スタイルを一度がらっと変えてみたいという気持ちはありました。

 

あの中くらいの小説というのは、少なくとも出した時点では、なぜか酷評されることが多いみたいですね。 外国では不思議なくらい 評判がいいんですけどね。

 

文章を書く時の基本方針

・動きが生まれるようなやりとり。ゴーリキーの「つんぼじゃねえや」

・比喩。チャンドラーの「太った郵便配達人」

 

第四章 たとえ紙がなくなっても、人は語り継ぐ

僕はすでに「村上春樹インダストリーズ」 みたいなものの中に組み込まれていて、 うちのアシスタントが何人かいて、 出版社がいて、エージェントがいて、書店があって 、Amazon があって…、みたいなことになっている。好むと好まずに関わらず。で、僕は結局その「村上春樹インダストリーズ」の中の生産担当ガチョウに過ぎないんですよね。

 

でも実際死んでみたら、死というのは、新幹線が岐阜羽島米原の間で永遠に立ち往生するようなものだった、みたいなことになったらイヤだよね。

 

前にも言ったように、この本の中で僕の使ってる「イデア」は、いわゆる辞書的な意味合いのイデア とはだいぶ違うんです。イデアという言葉を上に放り投げたら、 空中にあるいろんなものがピュッビュッビュッビュッってくっついてくるんだけど、その くっつき方は、放り投げる人によって違ってきます。

 

例えば僕が具体的に政治的な発言をしても、それに反対する意見を持つ人は、たぶんすぐに何か言い返しますよね。Twitter とかで。そういう次元の発展性のない、つまらない争いに引き込まれるぐらいだったら、もう論争とか関係なく自分の小説を、物語というものを、正面からぶつけていきたいですよね。 Twitter とか Facebook とかとは、真逆の方法を使うしかない。