グーテンベルクの時代
印刷術が変えた世界
ジョン・マン著
田村勝省 訳
原書房 発行
2006年11月10日 第1刷
その街にはグーテンベルク広場があり、そこに彫像もありましたが、自分がいた時は、ちょうど工事中でした。
ただ彼の顔立ちについては一切不明で、肖像画や記述も残っていないそうです。
第1章 色あせた黄金の都市マインツ
グーテンベルクは「ユーデンベルク」(ユダヤ人の丘)という意味深長な名前だった。
グーテンベルクの生誕年は?
父親の遺言状によれば、1420年までには成人になっていたので、1394年から1404年の間に誕生したということになる。
生誕の年が1400年と言われているのは、純粋にマインツ市の創設者たちの好判断による。
マインツでグーテンベルクの生誕500年を祝うには、1900年という区切りのいい年を選ぶのがいい。
そして誕生日はヨーハン自身の名前にちなんで洗礼者ヨハネの祝日、すなわち6月24日にすればいいだろう。
ということで、1400年6月24日を誕生日ということにした。
伝統的には、ドイツ人は自分たちをライン川とエルベ川にはさまれた地域に居住している人々と考えていた。
ところが1400年には突如として、ドイツ人の定義には、現在のオーストリアだけでなく、ハンガリー、ポーランド、ロシア西部、バルト諸国、およびボヘミアのチェコ語地域などを植民地化していくにつれて、東方にあくなき拡大を続ける地域の人々も含めるようになる。
ドイツ最初の大学が1348年にチェコ語地域のプラハに設立される。
ヨーハン・グーテンベルクがまだ十代だった1409-17年の時期には、三人もの教皇が併存していた。
グーテンベルクは近代的なレーザープリンターの解像度の少なくとも六倍、おそらくは六〇倍の微細さで鋼鉄に文字を掘ることができる人々と、子供時代から知り合いだった。
グーテンベルクは1429年頃から20年以降にわたりマインツの記録から姿を消す。
第2章 シュトラスブルグでの冒険
グーテンベルクは30代半ばで女性とトラブルがあり、結婚していなかったようだ
1439年のアーヘンの巡礼に向けて、グーテンベルクは鏡を大量生産する。
それは新しい技術を開発するための資金づくりであり、
鏡を作る技術と本を印刷する技術に関係がある可能性
事業にとって重要なプレス機は、ワインを作ったり、油脂を絞ったりするのに、また紙を圧搾して乾燥させるために古くから使われていた。
第3章 クザーヌスとキリスト教世界の統一
クザーヌスが「知ある無知」と呼ぶところに根差す考え。
第4章 印刷術発明への歩み
印刷において決定的に重要な紙は、紀元後105年に蔡倫という延臣が発明した。
8世紀に、中国、日本および朝鮮では、木片や石片を彫って本全体を印刷することが行われていた。
世宗は1443-44年にハングルを公表したが、それが徐々に定着したのは1945年以降のことで、最初は共産主義の北朝鮮においてである。
つねに国民的偶像であった世宗大王が韓国で定着したのは、ようやく1990年代になってからである。
東洋ではグーテンベルクの発明に必要な要素が欠如していた。
・文字体系が複雑すぎる。印刷にはアルファベット方式のものが必要である。
・既存の文字体系が保守的である。
・紙の種類が違う。中国の紙は書道ないし木版にしか適していない。
・ワインを飲まない東洋にはネジ式のプレス機がない。オリーヴがないので、紙を乾燥させるのに他の手段を用いている。
・中国、朝鮮、および日本には研究開発に資金をかける制度がない。
アヴィニョンに来たヴァルトフォーゲルはグーテンベルクの事業に酷似している。
第5章 なぜグーテンベルクだったのか
1444年にシュトラスブルグを去るグーテンベルク、その後4年間にわたる忘却の彼方に消えてしまう。
第6章 聖書への道のり
1448年、マインツは自己破産を宣言する。
その年、グーテンベルクがマインツに戻ってきたのが確実になる。
『アリス・グラマティカ』という標準的なラテン語の本。
著者であるアエリウス・ドナトゥスに基づいて『ドナトゥス』と呼ばれる。
これをグーテンベルクのマインツ工場で1450年頃に印刷、出荷していたのではないか。
グーテンベルクにはとってはほとんどすべて、経験、専門知識、工場、プロジェクト、そして大きな考え、つまりお金を除けばすべてが準備万端だった。
1452年、ブリクセンの大司教になったクザーヌス枢機卿は、フランクフルトにおける販売用として2000枚の免罪符を制作するように命ずる。
この命令はグーテンベルクの耳には音楽のように聞こえたのでは。
このチャンスに彼が何もしなかったという可能性は極めて低い。
第7章 金字塔グーテンベルク聖書の完成
グーテンベルクの『四二行聖書』は1454年秋までには出来上がっていたはずだ。
俗称ピッコロミーニ、将来のピウス2世が書いた書簡が証拠。
第8章 グーテンベルクの名誉回復
『マインツ詩編』という次の大きな印刷作品の首謀者がグーテンベルクだったことはほぼ確実である。
1468年2月3日、グーテンベルク死去
第9章 国際的に広がる印刷術
ドイツは印刷術の拡大にとって理想的な土地柄。
印刷屋に必要な金属のいい鉱脈が存在し、優秀な金属細工職人がおり、投資資金をもった裕福な商人もいた。
コンスタンティノープルの陥落はキリスト教国にとっては大惨事だが、にもかかわらず、ヨーロッパの学問にブームを引き起こす。
1453年5月29日はルネサンスの誕生日である。
第10章 ルターと宗教改革
印刷機の発明により、筆写人がいなくなった。
大聖堂は世代をまたいで受け継がれてきたキリスト教信仰を記録している、石および刻まれたステンドグラスでできた大百科事典だ。
「これはそれを殺すだろう」(Ceci tuera cela)
印刷された文字は石に書かれた話と、司祭やそれに従う芸術家によって受け継がれるという形で与えられてきた宗教に終焉をもたらす。
ルターの説教、論文、および論争術が、聴衆にアピールしやすいようにすべてドイツ語で、ドイツ全土にわたって何十万部という単位でプレス機からあふれ出て来る。
本書について
過去五千年の人類のコミュニケーション
第一は「書く」という行為自体の行為そのものの発明
第二はアルファベットの発明
第四はインターネットの台頭
本書は第三の転換点である活版印刷術の発明について書かれた。
もし印刷術が、近代社会の基盤の一つを形成しているとすれば
グーテンベルクは私心のない天才で、近代の先鋒となって、社会の改善に邁進し、新しい知識の利益を社会にもたらすことに情熱的だったに違いないと。
しかし真相は先入観とは正反対だったと思われる。
グーテンベルクの狙いは、カトリック教会が提供してくれるヨーロッパ大陸全域にわたる市場で、一番先に大儲けしてやろうと奮闘する商人のそれだった。
彼は近代主義者であるとともに、初期の資本主義者だった。