ロシア語だけの青春 ミールに通った日々

ロシア語だけの青春 ミールに通った日々 表紙

ロシア語だけの青春

ミールに通った日々

黒田龍之助 著

現代書館 発行

2018年3月15日 第一版第一刷発行

 

道を究めようとするなら、厳しい訓練が必要なんだなあと改めて感じました。

 

第Ⅰ部 生徒として

第一章 ヘンな高校生の「入門」

後にロシア語教師になって分かったことなのだが、数詞がきちんと使いこなせるかどうかは、学習者のレベルを判断するときに有効である。

外国語の読解では、多くの学習者が数詞を疎かにしている。

数字はみればわかってしまうので、それを外国語でどのように発音し、文法上の形はどうなっているか確認することが、つい疎かになる。

 

ウダレーニエ

ロシア語の単語は、音節のどこか一か所が他に比べ強く、そして少しだけ長めに発音される。これをウダレーニエという。

英語風にアクセントということもあるが、とにかくミールではこのウダレーニエを、思い切り強調して発音しなければならない。

 

発音はネイティブに習うより、日本人の専門家から指導された方がいい。

ネイティブが担当すると、彼らは発言の内容を重視するため、発音にはさほど注意を払わないのが一般的だ。

 

発音の指導は、先生のお手本を聞きながら発音するのがずっと実用的だ。

頭で理解するより体で覚える。

まるで体育会系だ。

 

第二章 笑えない笑い話との格闘

第三章 一生のバイブルとの出会い

外国語教育において、暗唱は欠かせない。

というか、暗唱してこなかった学習者の外国語は、底が浅いのだ。

 

国内で充分な外国語運用能力を身につけないまま、現地に留学した人の外国語は、一見すると流暢だが、実は自信がなくて弱々しい。

しかも暗唱を通して成長するチャンスをひとたび逃せば、二度とやり直せない。

 

第四章 途中から参加するドラマ

訳出した後に口頭で、日本語から外国語に訳す練習をすれば、必ず実力がつく。

家で辞書を引いてくる作業は、外国語学習の準備に過ぎない。

和訳を確認した後で暗唱するのが勉強であり、教師はそれをサポートするのが任務である。

 

第五章 永久凍土と間欠泉

同年代の言語感覚を過信すると、それ以上は伸びなくなってしまい、大人との会話ができない。ひいては仕事にもならない。

スラングは使う場面を間違えると、とんでもないことになる。

流行語というのは、常に更新しなければならない。

 

第六章 拝啓、グエン・バン・リン書記長殿

ロシア語のウダレーニエとは、実に強いものなのです。そりゃ実際に話すときは、もっと弱くなる。でも普段から弱いようであれば、本番ではもっと弱くなってしまう。それではダメだから、授業中は意識的に、強く発音する練習をする。

 

第Ⅱ部 教師として

第一章 M物産へ出張講師

外国語のために一定以上の時間を継続して確保できなければ、外国語学習はできない。

効果は上がらず、だから楽しくなくて、結果として続けられないことが目に見えている。

 

第二章 22の不幸を笑わない

講師としてミールで教えている時、生徒の発言を笑わないことを意識していた。

 

第三章 再びヘンな高校生の登場

ミールの授業はいわば訓練である。

ひたすら発音し、暗唱した成果を確認するといった、単純作業の繰り返しが基本。個性なんてほとんど出ない。

 

初級段階で質問は不要。そう悟った時に外国語が伸びた。

国語学習では、頭を一時的に空っぽにする必要がある。

 

会話能力を身につけようと思ったら、いくら大学や大学院で勉強してもダメ。

ミールのような場所で、徹底的に訓練を受けなければならない。

 

最近の高校は、いや大学までが、生徒のためにすべてをお膳立てしまう。

学校が用意してくれたコースで、どんなに積極的に活躍したところで、そんな経験は所詮、お釈迦様の掌の上にすぎない。

失敗はしないけど、何をやっても想定内。無難なものしか得られない。

 

第四章 レニングラードからペテルブルグへ

ソ連社会主義を建設した。いま、ソ連国民は共産主義を建設しつつある」という例文のおかげで、社会主義は実現したけれど、共産主義は実現しなかったことがわかる。

 

大学の講師をして、大学が見返りをもとめる場所であることを学んだ。

見返りとは単位だったり、好成績だったり、延いては卒業だったりするが、とにかく大学生はそういうものを求めて授業に通ってくる。

 

ミールは本当に不思議な空間だった。

なんであそこまで熱心になれたのか。

それは両東先生のことを「本物」だと信じていたからである。それに著者は本物に限りない憧れを抱いていた。

 

第Ⅲ部 再び教師として

第一章 突然の閉校

第二章 最後の講師として

夜の授業を受け持つのが、いかに疲れるのか、二十代の著者には実感できなかったが、四十を過ぎて初めて、多喜子先生の負担が本当の意味でわかった。