キリール文字の誕生 スラヴ文化の礎を築いた人たち(後半)

文字

中国文化や日本文化など、漢字文化圏と呼ばれるアジアの一部を除いて、象形文字の伝統は、今日ほぼすべて跡形もなく消滅している。

 

抽象化の道を選んだのが、アルファベットである。

 

日本語の書き言葉の体系は、象形文字の子孫である漢字と、音節をひとかたまりに示す音節文字を組み合わせて使う複合文字形態である。

西欧の学者の言葉を借りれば、これほどわかりにくく、効率の悪い文字体系はありえない、ということになる。

 

どんな複雑な文字体系でも、人はそれを習得することができる。

日本の非識字率の低さは、日本の教育制度の充実を証明しているだけのことである。

アルファベットによる文字体系が漢字と仮名による文字体系より優れていると考えるのは、格変化の少ない英語が格変化の多いドイツ語よりすぐれた言語である、と考えるのと同じようなことだ。

 

ギリシャ人たちは、フェニキア文字の中で、自分たちの言語を表記するためには不要と思われる子音を表すいくつかの文字を、そのまま母音に表記するために使った。oもaもuも、フェニキア文字にあっては、子音を表す記号であった。

 

日本語の平仮名は、音節文字だが、基本的にひとつの文字にひとつの発音が対応している。

「か」はkaであって、それ以外のものではない。

aと書いてあっても発音の仕方は何種類もある、という英語の方が、はるかに奇怪な「書き言葉」である。

 

『コンスタンティノス一代記』の作者が、文字の創造について「神の啓示によって一瞬のうちに言葉が定まった」というのは、つまり

「これは色々とたいへんなことがあって出来上がったもので、説明することはとても無理なのだ」という意思表明に近い。

 

ローマ

コンスタンティノス一行は、ローマ教皇の誘いを受け入れ、ヴェネチアからローマに向かう。

 

869年コンスタンティノスはローマ到着から一年余りを経た時にこの世を去る。42歳であった。

 

幽閉

870年、メトディオスはカトリックの司教によってラティスボンで逮捕され、幽閉される。

 

再び、モラヴィア

874年ないし875年に大司教位に復帰してから死の年までの十年余り、メトディオスはモラヴィア教会の最高指導者の地位にあった。

 

882年、メトディオスは再びコンスタンティノープルを訪問する。

 

弟子たち

メトディオスはモラヴィアの地で、二百人以上の弟子を育てたと言われる。

 

オフリド(現在はマケドニア領)で弟子のクリメントとナウムが知られている。

 

滅亡

モラヴィアの強大な敵は、マジャール民族であった

 

モラヴィアのカリスマ支配者スヴァトポルク

彼には三人の息子に三本の枝をたばねて、この枝を折ってみよと言い、それができないと見ると、枝の一本一本を折らせたという、どこかで聞いたのとそっくりな伝説も残っている。

 

モラヴィアの歴史は九世紀の初めから十世紀の初めまでの、わずか一世紀足らず。

 

再び、文字

コンスタンティノス、メトディオスの兄弟は、スラヴ語の文字を創造した、文字通りのパイオニアであり、スラブ文化の父ともいえる存在なのだが、彼らがなした行いの直接の痕跡は、今日一つも残されていない。

 

今日私たちが、スラヴ語最古の文献として知っている文字資料は、新約聖書中の福音書の断片的な翻訳と若干の聖者伝、祈祷書の類がほとんどである。

 

古代教会スラヴ語は、スラヴ語最古の文献であると同時に、スラブ語がまだ諸々の方言に分化していなかった時代の言葉、共通スラブ語の末期の状態を反映していると考えられるので、印欧語の歴史を研究する貴重な資料のひとつになっている。

 

グラゴール文字はキリール文字よりも古い。

一時併用されていた時期があったらしいが、やがてよりわかりやすいキリール文字が勝ちを占め、グラゴール文字は消滅していった。

 

遺産

ルーシで書かれた文献の中で祖本が残っている最古のものは『オストロミール福音書』という文献である。

この本は1056年から57年にグリゴリイという僧侶によって書かれた。

現在のところ東スラヴ最古の文献をされている。

 

白樺文書

ノヴゴロドで白樺の表面に、鉄あるいは動物の骨で作った尖筆を使って彫り込む。

十一世紀半ばのものも含まれており、キリール文字がはるかに早い時期に東スラヴの広い範囲に伝わり、庶民の間まで広まっていた証拠。