キリール文字の誕生
スラヴ文化の礎を築いた人たち
原求作 著
上智大学出版 発行
2014年3月10日 第1版第1刷発行
前書き
この本は、著者が十年間くらい学生向けに講義してきたキリール文字創造の話を、少し膨らませて、一般読者が興味を持てるような形に書き直してみたものである。
キリール文字を創った立役者であるキリール、メフォージイ兄弟の生涯を知る最大のよりどころとなっているのは、二人の伝記である。
今では、正教会といえばロシアのもの、という印象があるけれど、本家本元はギリシャである。
聖デメトリウスはテッサロニキの守護聖人として崇拝されている人物で、こちらはキリール、メフォージイと違って町の有名人である。
しかし歴史上実在したデメトリウスは、テッサロニキとは縁もゆかりもない人間であることがわかった。
立派な殉教者だから伝説になったのではなく、伝説になるために立派な殉教者に仕立て上げられた、ということも考えられる。
キリスト教徒が、長い迫害の時を耐え、信仰の自由を満喫できる立場になったのは、大帝コンスタンティヌスによってミラノ勅令が発布されたことによる。
九世紀初め、テッサロニキは、首都コンスタンティノープルに次ぐビザンティン第二の都市であった。
テッサロニキは一貫して重要な物流の拠点であった。
キリール、メフォージイ兄弟は、九世紀のテッサロニキで軍人の子として生まれた。
当時帝国の公用語はギリシャ語だったが、テッサロニキの町にはこの時代多くのスラブ人がいたから、兄弟にとってスラヴ語は耳慣れた言葉だった。
スラヴ文字の創造に大きな働きをするのは弟のキリールで、スラヴ文字をキリール文字と呼ぶのは、見てわかる通り彼の名前から来ている。
キリール、メフォージイというのはロシア流の呼び方で、ギリシャ流ではコンスタンティノス、メトディオスと呼ぶ。
時代
ビザンティン帝国を救ったのは、八世紀の初めに帝位についた新しい皇帝レオン三世だった。
九世紀は教皇庁の後ろ盾をえて復興したフランク王国という名の新しい西ローマ帝国と、小アジア的専制国家に形を変えた、古代ローマ帝国の古き後継者東ローマ帝国という二大勢力となって、厳しい対立の時代を迎える。
初期キリスト教社会では「異端」というのは、結果的に敗北して野に下ったから「異端」と呼ばれるのであって、最初から異端だったわけではない。
451年、フン族やヴァンダル族のローマ侵略を阻止したローマ司教レオ一世の力で、カルケドン公会議が開かれ、単性論が異端とされた。
自らの「普遍性」を主張するローマ・カトリックと、みずからの「正統性」を主張するギリシャ正教会が対立し、フランク王国を中心とした西方勢力と、ビザンティン皇帝を頭にいだく東方勢力が対立し、そこに新興イスラム勢力がからみあう、複雑な相関図が作られていく。
ローマ・カトリックの西欧世界への浸透は、比較的スムーズに進んだ。
東方教会の布教活動は、これに対して困難を極めた。
843年、コンスタンティノスは故郷の町テッサロニキを出て、首都コンスタンティノープルに入った。
ビザンティンの知識人
レオンは自然科学の諸分野を代表する学者
フォティオスは人文科学の諸分野を代表する学者
18世紀までのロシアの知識人にとって、生きて知るべき言葉というのは、なによりも教会スラヴ語であり、その次にくるのがフランス語だった。
ギリシャ語には母音が数多くあるが、フェニキア文字は母音を表す文字をほとんど持っていないことを知っていた。
そこでギリシャ人は、フェニキア文字を借りるにあたって、子音を表す文字の一部を、母音を表すために利用した。
キリール文字の創造において、その過程で数多くのの知能が関わったことが明らかだけど、コンスタンティノスがその長い長い過程のはじまりを作ったこともまた事実である。
アラブ
コンスタンティノス一代記の中で、バクダッド郊外でイスラム教の論客と対決し、
ハザールでユダヤ教の論客と論戦した。
第一次ブルガリア
七世紀前半、ビザンティンに支配権を認めさせて国家となる。
十一世紀になって滅ぼされる。
近代ブルガリアとは別の国
ハザール
ハザールは六世紀の東ヨーロッパに出現した遊牧国家
現在のスロヴェニア、あるいはボヘミアあたりに居住していたスラヴ人が、サモという名のフランク人商人の指導のもとに反乱をおこし、国を作った。
スラヴ民族最初の国家と言われるサモ王国である。
658年にサモが死んだ直後に滅んだ。
モラヴィア王国の建国は、おそらく820年、モイミルによってなされたものと言われる。
モラヴィアという地名は、チェコ共和国の東部にいまも残っている。
モラヴィアはスラブ人によって作られた、はじめての国家らしい国家だった。
三言語主義
当時のカトリック社会では、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語のみが神に選ばれた言葉であって、伝道活動はこの三つの言語以外の言語で行ってはならない、というもの。
しかし実際は、ラテン語至上主義に近い。
コンスタンティノスを中心としたビザンティンの使節団は、863年春にコンスタンティノープルを出発し、その秋にモラヴィアの首都ヴェレフラドに到着した。
863年秋から867年春まで、モラヴィアに滞在。