江戸参府旅行日記 ケンペル著

江戸参府旅行日記 

江戸参府旅行日記

ケンペル 著

斎藤信 訳

平凡社 発行

東洋文庫303

1982年1月20日 初版第4刷発行

 

当時の日本の人物、地理、建物などについて、事細かに記録に残しています。

誤りの部分は訳者に訂正されています。

 

この本はドームが編集したケンペルの通称『日本誌』を1964年ハノー・ベックが覆刻したものを底本にしています。

 

第一章 参府旅行の準備と日本流の旅行の記述

 

第二章 長崎から幕府の所在地江戸に至る水路並びに陸路の一般的記述とその状態

参府旅行の日程は三つの部分から成り立つ

・長崎から陸路小倉に至り、舟で下関に至る

・一週間くらいで大坂までの海路

・江戸まで二週間以上の陸路

 

第三章 われわれが主要な街道で見た庶民ならびに寺社の建築物およびその他の一般的記述

建築物は例外なく低い木造で、たびたびある地震に備えるためである

(ケンペルの滞在中も、たびたび地震を経験していた)

 

第四章 駅舎・旅館・料理屋・茶店の記述

 

第五章 毎日街道を旅行し、また街道筋で生計を立てている人々の群について

 

第六章 オランダ人の参府旅行と彼らが途上で経験した待遇について

 

第七章 長崎から小倉までの陸上の旅(1691年2月13日出発)

 

第八章 小倉から大坂までの旅(1691年2月17日出発)

赤穂は浅野内匠頭という小さい大名の城下で、その収入はわずか五万石に過ぎない。

 

網干や姫路の付近は海底には岩礁が多く、航行には適さない。

 

第九章 大坂から京都までの旅と二つの都市についての記述

 

第一〇章 京都から浜松までの旅六三里(江戸までの半分の道程)

大津は淡水湖の岸辺にあり、固有の名がなく、ただ「大津の湖」と呼ばれている。

(まだ琵琶湖という名称はなかったのでしょうか)

 

宿舎の前で、ケンペルたちは内裏から急いで帰る将軍の使者〔吉良上野介義央〕が通り過ぎるのに出会った。

彼は立派な人物であった。

(ちょうど忠臣蔵の時代だったのですね)

 

ケンペルの時代でさえ、コザック兵は川舟をヴォルガ川まで運んでいる。そこで舟を下ろし、帆を上げて川を下っていった。

 

第一一章 浜松から将軍の居城のある江戸までの旅(六〇里三八町)

 

第一二章 江戸の町と江戸城の記述 同地での二、三の事件 われわれの拝謁と告別

 

第一三章 江戸から長崎までの帰り旅 その後、長崎で起こったこと

兵庫の港を後にし、西方二里の島、室津の沖合にある家島村に着き、ここで新しい水を積込み、錨を巻き帆を掲げたが、風がほとんどないので、櫓の力を借りて夜の海に船を進めた。

(島で十分な真水があったのだろうか)

 

6月1日、日本人の祭日である。彼らはわれわれ商館員がペーランと呼んでいる競艇を行う。

競漕の際彼らは鈴や鐘をたえず鳴らしながら、何度もペーロンペーロンと呼び、心から楽しんでいる。

ペーロンのことでしょうか)

 

第一四章 第二回の江戸参府旅行

姫路では立派な大天守閣のある城が見えたが、網干には幕府の倉庫がある。

けれども、この二つの町には港がない。両方とも海底が泥深く石が多くて、うまく錨を下ろせないからである。

 

第一五章 江戸から長崎までの帰り旅

明石を過ぎて、櫓の助けをかりて日の暮れる頃には室から五里(手前)の鞍掛島で錨を下ろした。

 

出島について変わったと気付いたことは、食用の鳥類を売る店が閉ざされたことで、その理由は十日前に江戸幕府の命令が出て、魚類のほか、動物は何ひとつ殺してはならないということになったからである。

 

解説

ケンペルが近くのドイツの大学よりも、遠方のクラカウやケーニヒスベルグやウプサラの大学を選んだ主な理由は、前に述べた旅行に対する非常な愛着であったと思われる。

 

長らく祖国を離れて外国を旅行していた人々に多いのであるが、特にケンペルのドイツ語は、十八世紀の文体からみれば古風で、ドイツ人にも読みにくいものだった。

そこで出版社は、ドームにケンペルの原文を読みやすい文体に書き直すように求めてきた。