ウラジオストク物語 ロシアとアジアが交わる街

ウラジオストク物語 表紙

ウラジオストク物語

ロシアとアジアが交わる街

原暉之 著

三省堂 発行

1998年9月10日 第1刷発行

 

プロローグ

ウラジオストクの空港が奥まった位置にあるのは、地形や防衛上もさることながら、気象上の理由も小さくないと考えられる。

日本海のこのあたりの海岸部はひんぱんに霧が発生する。

 

ウラジオストクは日本から最短距離にあるロシアの都市であり、かつて漢字で「浦塩斯徳」略して「浦潮」あるいは「浦塩」の名で親しまれた。

日本との間には今日想像されるよりはるかに密接な関係を取り結んでいた。

 

第一話 北船南馬

ウラジオストクは7月2日を開基の記念日としている。

1860年7月2日、ロシアの輸送船「マンジュール」号が「東のボスポラス」海峡を通り、天然の良港であるゾロトイ・ローグ(金角)湾に接岸した。

 

ウラジカフカスウラジオストク

カフカス山脈の北麓とウラジオストクを中心とする沿海地方は、ともにロシア連邦の最南端に位置し、同じ1860年ロシア帝国に併合された歴史を共有している。

 

シビル・ハーン国がシベリアの語源である。

 

世界の十指に入る大河の内、四つはシベリアを流れている。

北極海にそそぐオビ、エニセイ、レナ、そして太平洋に注ぐアムールである。

 

一般に地形が平原性のロシアでは、ヨーロッパ部とシベリアを問わず、一つの河の支流から隣の河の支流へ、小舟を引きすって分水嶺を越えることが比較的容易である。

古来、そのような小舟を引きずる道は「ヴォーロク」と呼ばれた(連水陸路と訳される)

 

オホーツクは17世紀半ば以来、19世紀半ばまでロシアにとって「太平洋の窓」であった。

ロシアはここを拠点として東方への進出を続け、カムチャッカ半島、千島列島、アリューシャン列島、アラスカ、更に今日のサンフランシスコ付近までの北米大陸の西海岸を支配下に入れた。

 

ロシアのシベリア進出は、行政・軍事・通商の拠点となる越冬所や砦を足場としたが、それらの武装拠点はさしあたり果てしない先住民の大海に浮かぶ小島にすぎなかった。

 

第二話 アムール問題

1689年のネルチンスク条約によりアムール流域の北側に連なる分水嶺が露清国境として画定された。

ロシア側から見た場合、ネルチンスク条約で放棄したアムール河流域をいかにして清国から取り戻すかという問題である。

 

第三話 海参い(山かんむりに威)

ウラジオストクは、中国では海参いの漢名で呼ばれる。

海参は「ナマコ」、いは「山谷の平らかでないさま」だから、さしずめ「ナマコが丘」とでもいえようか。

ウラジオストクは実際すぐれたナマコの産地である。

 

第四話 露国東鎮

クリミア戦争は1853~56年にロシアがトルコ・イギリス・フランスと対戦した戦争はクリミア半島を中心とする黒海が主戦場だが、カムチャッカ半島のペトロパヴロフスク港などにも及んだ。

 

第五話 太平洋新時代

一般にロシアによるシベリア併合の歴史は、要衝の地に軍事基地とロシア正教会の教会堂を建造して住民拠点とすることからはじまるのを常とする。

 

ウラジオストクに入港した最初の商船は、アメリカ船「セントルイス」号である。1861年に入港。

生誕直後のウラジオストクが、アメリカ船から必要な物資の供給を受けていたという話は、単なるエピソード以上の意味を持つ事柄だろうと思う。

 

第六話 良港南路

1868年、維新政府軍と幕府軍の内戦は戊辰戦争と呼ばれるが、ロシアでは「マンズ戦争」の名で呼ばれた。

 

第七話 一衣帯水

ウラジオストクが正式に都市と宣言されるのは1880年4月28日とされる。

この日付の皇帝命令により、ウラジオストクは「市の位に昇格」となる。

 

1920年ウラジオストクで生まれたユール・ブリンナー

 

1870年代初頭にシベリア小艦隊の主港がウラジオストクに移されると、ロシア艦隊の寄港地としての函館の存在意義は薄れ、長崎がその越冬、修理に不可欠の重要な港湾になった。

 

ウラジオストクの国際都市化をうながした要因

・自由港制の導入

・土地区画の安価提供などの優遇処置

・国際的電信ルートが早い時期に確立された

 

第八話 南海航路

1870年代から20世紀初頭までのほぼ四半世紀が、ロシア史上、「南海航路」の全盛期であった。

 

1854年 ロシア極東植民がはじまる。シベリア街道とそれに接続するアムール河川路が極東植民のメインルートになる。

1879年 ここから四半世紀は義勇艦隊期

1904年 日露戦争勃発

 

第九話 拓地植民

19世紀の80年代から20世紀初頭にかけて、黒海の港町オデッサでは毎年、必ず三月初旬から四月中旬になると移民船の出港風景がみられた。

 

第一〇話 悪疫襲来

1883年極東最初の新聞『ウラジオストク』の刊行が始まる。

日本の通信員小島倉太郎

 

1886年ウラジオストクコレラ襲来

 

第一一話 日常茶飯

ロシアの伝統的な茶の輸入ルートは露清国境のキャフタを起点とし、ヴォルガ河畔のニジニ・ノヴゴロドが終着点となる。

 

第一二話 衛生行政

沿海州を嘆かわしい貧困、と伝えるチェーホフ

 

第一三話 西伯利地誌

西伯利地誌は自然地理、人文地理、歴史の三巻からなる

 

日本のロシア研究の一つの問題点として、直接ロシアを研究するのではなく、バイアスを持った他の国(イギリス)から間接的に学ぶ傾向があったといわれる。

しかし榎本武揚黒田清隆らの旅行記、川上俊彦のウラジオストク都市研究など、実地に直接ロシアから学んでいるのではないか。

 

第一四話 昼夜兼行

鉄道建設を急ぐ

 

第一五話 百事武断

イザベラ・バード曰く、「ウラジオストクは確実に極東のジブラルタルであり、同時にオデッサである」

要塞・軍港の機能と貿易港の機能

 

第一六話 越境短絡

中東鉄道敷設

 

第一七話 全線開通

シベリア鉄道の全線開通

 

第一八話 最高学府

ウラジオストクの東洋学院の開校

 

第一九話 戒厳令

 

第二〇話 朝憲紊乱

 

第二一話 在留邦人

出稼ぎ娼婦の出身地は長崎の海岸沿いが多かった。

単に貧困や人口過剰ではなく、古くから海外の窓としての長崎があった。

 

第二二話 環日本海

自由港制はロシアによる極東地域の併合直後から適用されている。

本国からあまりに遠距離にあって輸送費がかさむため、外国品にいちいち課税していたら植民地経営も成り立たなかった。

 

中東鉄道が竣工すると日本海に甲乙二航路を就航させた。

 

第二三話 雑居集住

 

第二四話 四通八達

 

第二五話 戦士群像

第一次世界大戦下のウラジオストクは戦時補給品の陸揚げ地という特別の役割を担わされてきた。

ロシアにとってここは「人体における口の如き役割」だった。


エピローグ

ソビエト化されたウラジオストクからは、国際都市の性格が急速に失われていった。

 

文献案内

ウラジオストク・街の歴史散歩』の訳は感心しない