海のロシア史(後半)

義勇艦隊の最初の軍艦旗

第Ⅱ部 国家 ロシア義勇艦隊史

第4章 19世紀のロシア義勇艦隊 就航とその後の模索

一 義勇艦隊の設立

義勇艦隊が創設されるきっかけになったのは、1877年から翌年にかけて行われた露土戦争だった。

 

1880年代後半においても、モスクワからシベリアを抜けて陸路でウラジオストクまでモノを輸送するのに255日かかるとされており、オデッサウラジオストク間を40日程度で結ぶ義勇艦隊の意義は大きかった。

 

二 義勇艦隊の始動

三 新たな規程制定をめぐる論争の始まり

海軍省財務省の間の規程をめぐっての駆け引き

 

四 1886年時限規程の制定

 

五 ブラジル航路の計画

義勇艦隊による一度だけの世界一周

 

六 ミハイル・カジのロシア商船批判

七 1890年代の発展

1890年より義勇艦隊の船がペテルブルグにも来航

 

第5章 セルゲイ・ヴィッテの海運政策

一 若きセルゲイ・ヴィッテの道のり

二 ヴィッテの経済思想

三 ヴィッテによる海運の改革

北方汽船とロシア東亜汽船の設立

 

四 1902年の義勇艦隊時限規程

五 海運の国産化と外国資本の排除

 

第6章 商船化への道 日露戦争後の義勇艦隊

日露戦争後の義勇艦隊の商船化

一 義勇艦隊の組織の見直し 海軍省から商工省へ

二 義勇艦隊と各地の取引所委員会

三 第一次世界大戦直前の義勇艦隊

四 バルト海ウラジオストク航路の創設計画

 

第Ⅲ部 世界経済 ロシア海運の発展

第7章 ロシア東亜汽船と義勇艦隊の競争 帝国の西と東

一 ロシア東亜汽船の設立

二 ユダヤ人移民とパスポート問題

帝政末期、ロシア帝国からアメリカへ多くの移民、特にユダヤ人が渡った。

 

三 大西洋航路の設立

オデッサとニューヨーク間を計画

しかし義勇艦隊はオデッサをあきらめ、リバーヴァから送出

 

四 大西洋航路の見直し

五 日露戦争後の極東近海航路の再編

六 決算報告の分析 義勇艦隊への補助金

日露戦争後、義勇艦隊は極東へ回帰

 

七 警戒しつつ手を結ぶ 日露戦争後の日露関係

ロシア側が警戒したのが、日本からの茶の輸入だった。

日本が船で大連にこれらの品物を運び、そこから多量に鉄道経由でロシア領内に入ってくることを警戒していた。

 

第8章 北方汽船の模索

一 北方汽船の船出

二 黒海バルト海への進出

三 東方への回帰

四 インド、セイロンからの茶の輸入

北方汽船は茶の輸送において、義勇艦隊のライバルとなる。

 

五 茶の輸送競争 義勇艦隊と北方汽船

六 ロシアによる茶の輸送網の把握

 

第9章 ロシア商船とオデッサ

ロシア商船は帝政ロシア最大の汽船会社

一 19世紀前半のオデッサ

エカチェリーナ二世が港建設の勅令を出し、実際に建設が開始された1794年がオデッサ誕生の年

 

二 ロシア商船の設立

三 東地中海とロシア

四 オデッサの自由港制案

黒海や東地中海はギリシャ人の商業ネットワークが根を張っていたが、そうしたなか、ロシア商船は時にギリシャ人の汽船会社を取り込みながら発展していく。

 

五 ペルシャ湾航路の設立

六 ペルシャ湾航路の結果

 

補論2 スエズ運河の通航料問題

一 スエズ運河とのかかわりの始まり

ロシアがエチオピアに接近することになったきっかけは、1869年のスエズ運河開通である。

 

二 補助金の条件の改定

 

終章 海から見たロシア帝国

一 第一次グローバリゼーションとロシア帝国

後世から見た場合、義勇艦隊が果たしたもっとも大きな役割は、黒海沿岸からロシア極東に人や物を運ぶことで、ロシア極東のロシア帝国への統合を促進したことにある。

 

二 ソ連時代への遺産

ソヴィエト商船も帝政期の義勇艦隊とロシア商船の仕事を引き継ぎ、外交手段の一環として、1920年代にはメッカ巡礼者の輸送に従事している。

 

敦賀においてのルーブル熱も、ロシア革命以降、旧帝政時代のロマノフ紙幣を始めオムスク紙幣、ケレンスキー紙幣も反古同様となった。

 

義勇艦隊の後継団体としてFESCOが現在でも活動している。