ケンペル 礼節の国に来たりて(前半)

ケンペル 礼節の国に来たりて 表紙

ミネルヴァ日本評伝選

ケンペル 礼節の国に来たりて

B・Ⅿ・ボダルト=ベイリー 著

中直一 訳

ミネルヴァ書房 発行

2009年9月10日 初版第1刷発行

 

はじめに

ドイツ人ケンペルは十年の長きにわたって大旅行をなし、モスクワを経てペルシャへ、そしてそこからセイロンとインドを経由してインドネシアへ、そして日本にやってきた。

ケンペル自身は、自分の詳細な日本論の出版を見ることなく没した。

彼が生前刊行したのは、自己の大旅行をについて一つの概観を与えるような著作一冊のみだった。

ケンペルは当時の日本の日常的な事柄、一般庶民の生活を書き残した。

 

ケンペルの故郷レムゴには当時の多くの建物がほとんどそのまま今日まで残っている。

 

第一章 若きケンペル

1 ケンペルとその時代

ケンペルが生まれた十七世紀中葉は、ヨーロッパの人々にとって、科学のあらゆる領域で自然法則の発見によって世界が次第にその魔術的な性質を失っていった時代である。

 

ケンペルは十七世紀の人間としては珍しいほど先入観を持たずに、寛容な態度で他の宗教のことを記述することが可能となった。

かつてイエズス会の宣教師たちは、日本の宗教の事を悪魔のなせる業であると述べた。

 

2 魔女裁判の時代

ドイツの歴史書の中で都市レムゴの名前が登場するとき、ケンペルの生誕地としてではなく、むしろ十七世紀後半、多くの人を魔女として処刑した都市としてである。

 

3 若き旅行家

 

第二章 ペルシャへの道

1 大旅行への出発

 

2 ロシアに向かう

ケンペルにとってロシアはアジアへの中間地点だったが、それは具体的・身体的な意味だけではなく、精神的・心理的な面においても、彼はロシアではじめて異国を体験した。

 

3 モスクワの宮廷にて

ロシアには

・教会は多いが、参拝者は少ない

・酒飲みは多いが、ジョッキは少ない

・売春婦は多いが、売春宿は少ない

・ロシアで酷使されているもの、教会の鐘、馬、そして女

 

4 カスピ海西岸

グルジア、苦い海水、古都シェマハ、バクーの炎を噴く大地

 

第三章 ペルシャへ そしてさらなる遠方へ

1 ペルシャでの滞在

大都市イスファン

 

2 イスファンからの出発

ペルセポリスの遺跡、詩人とバラとワインの町シラーズ

 

3 地獄のような環境の中で

交易港バンダル・アッバースでのつらい生活

 

第四章 日本への道

1 オランダ東インド会社

この会社では医師は重要な役割を果たしていた。荷物の寿命よりも、人間の寿命の方がはるかに短かった。

 

2 インド

インドに失望するケンペル

 

3 バタヴィア

東洋の真珠と呼ばれる都市

 

4 日本を目指す

5 シャム王国

6 異文化への眼差し

オランダ人が東南アジアから日本に向けて航行するのは、七月初めだった。

この季節には南ないし南西からモンスーンの風が吹くので、その風を帆に受けて日本に航行することができた。

晩秋には大陸の方面から北風ないし北東の風が吹き、船は再びバタヴィアに戻った。