よみがえる天才5
高橋憲一 著
ちくまプリマー新書364
2020年12月10日 初版第一刷発行
『チ。地球の運動について』の再放送を見始めました。
そのテーマに一番近い人物がコペルニクスだと思います。
第一章 青少年期のコペルニクス
ニコラウス・コペルニクス、1473年、ポーランドの商都トルンに生まれる。
トルンはハンザ同盟の内陸都市であり、ポーランドとハンガリーと西欧を結ぶ陸海の要衝だった。
ドイツ騎士団は聖地巡礼のドイツ人の警護と病人の世話を名目に、異教徒と戦うために12世紀末にパレスチナで設立された団体。
しかし14世紀には、異教徒のプロシア人をキリスト教徒化するという名目でバルト海沿岸地域に進出していた。
ワーミア司教区の場所は三方をドイツ騎士団領に囲まれていた。
コペルニクスの生きた1473-1543年
・大航海時代の到来
・宗教改革の始まり
・ルネサンスの展開
コペルニクスが入学したクラクフ大学が極めて例外的だったのは、天文学の教授を二名擁していたこと。
このドイツにはデンマーク、リトアニア、ポーランド、スウェーデン出身者が含まれる。
その勉強は天文学と無縁ではなかった。
人体の各器官はそれぞれ特定の惑星や黄道十二宮に支配される、と見なされていた。
地球を中心とする円(導円という)の上にもう一つの円(周転円という)を乗せ、その上を惑星が一定の回るという工夫がプトレマイオスの基本モデル。
その基本モデルも太陽系モデルも幾何学的に等価になっている。
第二章 留学帰りの聖堂参事会員兼医師の重要な余技
六年間のイタリア留学を終え、1503年、ワーミア司教区に戻るコペルニクス。
短期間にわたる二三の例外は除き、二度と「この地のさいはて」を出ることはなかった。
コペルニクスの自画像を模写したものが、シュトラスブルク(ストラスブール)のノートルダム大聖堂にある。
陳腐な書簡集を翻訳した背景には、ギリシャ語文献をラテン語に訳すること自体に価値が置かれていたルネサンスの息吹を彼も吸っていた。
コペルニクスを研究する科学史かを悩ませる問題は、何の前触れもなく、「コメンタリオルス」でいきなり太陽中心説という斬新で革命的な天文理論の出現に出くわしてしまうことである。
プトレマイオスの天動説が1400年にわたって支持され続けたのは、彼の理論がよくできた天文理論だったからである。
コペルニクスが天動説から地動説に理論を革新した動機について、学者の推測
・ピュタゴラス主義
・教会暦の改革という社会的要請
・天文航法を必要とする大航海時代の到来
・プトレマイオスの月理論への不満
・惑星運動の第二変則性への新たな対応
ニュートンが自分は巨人の肩に乗っていたから遠くまで見通すことができたと語ったように、コペルニクスもプトレマイオスという巨人の肩に乗っていたからこそ見通すことができた。
地球を中心として太陽が回転し、その太陽を中心としてすべての惑星が回転している。この宇宙体系は「ティコの体系」と称している。
コペルニクスに決定的な一歩を歩ませたのは天球概念である。
思いがけない形で、地球の公転運動を要請したのである。
第三章 天文学者として名が広まる参事会員
コペルニクスの家政婦とのスキャンダル
最初は教皇庁側はまだコペルニクス説に対して、強硬な態度はとっていなかった。
地動説を弾圧したのは後年の事だった。