柳田国男「山の人生」の冒頭の事件を赤ペン先生してみる

柳田国男「山の人生」の冒頭の事件について、「柳田国男と事件の記録」(講談社選書メチエ40)をもとに、恐れ多くも、赤ペン先生してみます。なお内容については、柳田が読んでいない『奥美濃よもやま話 三』に書かれた「新四郎さ」のテキストとの差異ではなく、あくまで当時の新聞報道など、柳田が得た情報に近いであろうものとの差異に限定しています。当時の同じような資料をどう読み外に表したかに興味を持つからです。
なお、書かれたページはすべて「柳田国男と事件の記録」からです。


今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。

(この事件の記録は、岐阜地方裁判所にも、岐阜の検察庁にも、東京の内閣法制局にも、法務省保護局恩赦課にも、残っていないという話であった。p181 
戦災や記録の廃棄処分のためであるという。p226)

三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞できり殺したことがあった。

(この記述は大正14年(1925)のもの。p129 
事件は明治37年(1904)に起こった。とすると三十年ではなく、二十年ほど前になるのか。場所は「西美濃」と書いているが、厳密には郡上郡明方村で、むしろ奥美濃もしくは北濃と呼ばれる地域。p172

この男は昭和15年(1940)に亡くなっているので、p160
当時50ばかりということは85くらいまで生きたということになるのか)

女房はとくに死んで、あとは十三になる男の子が一人あった。

(妻は事件の七年前に失った。p212
長男は戸籍謄本では満10歳となっていた。p174)

そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。

(戸籍謄本では養女とあるが、その男と妻のあいだでその婚姻前に生まれたのを、いったん妻の兄のもとに入籍させ、婚姻ののち、男の戸籍に養女として入れ直したものと考えられる。p174)

その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日には空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥に入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。

(事件は四月六日に起こっている。新聞報道では六日午前九時、戸籍謄本では午前五時と、やや食い違いがある。つまり秋の末の夕方ではなく、春の日の夜明け前ないし朝のことであった。p196) 

二人の子供がその日当たりのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事で使う斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。
この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中に出てきたのである。

(特赦は明治三十九年(1906)三月に行われている。p216
事件は明治三十七年だったので、二年ほどで世の中に出てきたことになる)

そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分からなくなってしまった。

(「新四郎さ」の語り部である金子信一の家で草むしりの仕事などして出入りしていたという記録あり。p139)

私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕ばみ朽ちつつあるであろう。

(柳田は明治三十五年(1902)二月から法制局の参事官になったが、その時特赦の事務を取り扱うことがあり、そこでさまざまな犯罪の予備調書や関係資料を読むことになった。p129)