藤原定家 (吉川弘文館)
藤原定家
村山修一 著
吉川弘文館 発行
昭和37年9月25日 第1版第1刷発行
平成元年10月1日 新装版第1刷発行
はしがき
『明月記』のおかげで、定家ほど、生活の隅々までしられる歴史的人物は、近世以前においてはちょっと他に見出だし難い
1 御子左家の伝統とその周辺
藤原定家の生まれた御子左家は全盛期の摂関家から源を発しているだけに、気位も他の公家に比べて一段と高く、道長への敬慕の念もことに強いものがあった。p1
後拾遺和歌集 1086年
金葉和歌集 1124年
詞華和歌集 1151年
千載和歌集 1187年
この一世紀こそは公家にとっても誠に重大な政治的変転期であった。p8
2 青春時代
定家の日記に「紅旗征戎吾が事に非ず、陳勝呉広大沢に起り」
公家が日記をつける場合、中国の故事をひき、大袈裟に表現することは決して珍しくなく、そこには衒学的知識、権威の根源を中国に求めようとする意識がひそんでいる。
定家は特に感情の激しい人であるだけに、その使用も頻繁であり、またそこに定家特有の風貌がよく伺わえる。p37
3 九条家出仕
定家ほどに漢学的素養をもち、漢詩に得意な歌人も少なく、それはこの時期に九条家学風の感化が絶大であったためと、定家自身の強い感受性が巧みにこれにマッチしたことに原因があった。p59
定家の空想的世界はいわゆる「物語的詠法」によって得られる。
物語の一場面をとらえそれを脳裏にうかべて総合的・立体的に描き出し、みずからもその中に体験しつつある者として詠み出そうとする詠法。
定家はそのよりどころとして、国書では『源氏物語』漢籍としては『白氏文集』『文選』『漢書』『唐書』を愛読した。
定家の得意とした恋歌のごとき『源氏物語』の影響が大きかったに相違ないが、漢籍を好んだのは異国趣味がローマン主義昂揚に好都合だったからだ。p63
4 官途への執着
定家の子の為家
定家と違い、社交的で蹴鞠の上手だった。p79
5 新古今への道
6 思索と反省
7 後鳥羽院政
8 権力者と追従者
9 熊野御幸
熊野御幸は全盛期の院政とは不可分の関係にある。
常に九重の宮厥奥深く君臨していなければならない天皇の地位から開放された上皇は、行動の自由・権力の乱用に対する非常な興味から盛んに各地へ御幸した。p167
10 荘園所領
中世公家の生活を支える第一の要素は荘園
傀儡は人形を舞わし諷誦をよくした遊芸団の一行
吉富荘に巡回し、農村で興行
一種の流民であるから、乱暴狼藉を働かれても賠償を要求することが出来ず、敬遠する外なかった。p207
兵庫県揖保郡新宮町にある越部荘
揖保川の水運を利用すればすべて舟のみで京都の南郊に達しうる。
『明月記』に定家少年の頃、越部荘からの贈り物に兎や小鳥があり、これらは公家が食うべきものではない、青侍にやれと父俊成に云われた思い出を記している。
俊成は晩年ここを定家ら三人に分割譲与した。p210
11 承久乱後の世相
12 子弟と所従たち
13 洛中洛外の住居
14 新勅撰前後
15 宗教観と自然観
平安末期、末法思想・無常思想が渦巻く公家社会の中で成人した定家は、強い宿命観に支配されていた。彼は特に彼の心を動かすような出来事を見たり聞いたり経験したりした場合、よく「末代」「末世」等の語を使用する。p333
16 病苦と晩年
定家の書写の理由
・老衰で立居が意の如くならなくなった時期でも多少の無理をおして出来る仕事であったから
・写本をつくることが好きだったから
・承久以後彼の家業としての歌道確立の意識が書写に拍車をかけたp369-370