渋沢栄一、パリ万博へ

渋沢栄一、パリ万博へ 表紙

 

渋沢栄一、パリ万博へ
渋沢華子 著
国書刊行会 発行
1995年5月25日 初版第一刷発行

1867年(慶応3年)パリ万国博覧会使節団に加わり、更に徳川昭武のヨーロッパ及びフランス地方視察に随行した渋沢栄一。それを中心とした栄一の活躍の叙述の間に、約120年後、孫の著者が栄一の足跡を追いかけた旅行記を組み込ませています。
発行日からもわかるように、大河ドラマに乗じたものでなく、もともと月刊『歴史と旅』の連載によるものだったようです。ちょうどパブル経済の時代、栄一の「私利私欲のない」心情を見返す時期だったのかもしれません。
一方、女性親族の立場と気楽さからか、栄一の女性好きを皮肉る箇所もあるのが面白かったです。
渋沢の大河ドラマ自体、そんなに一生懸命観ていたわけではなかったのですが、パリ時代はわりとよく観ており、この本を読み進める中で、その場面場面がよみがえってきました。
あと、たまたまネットの古書販売のサイトを見てみると、大河ドラマ効果からかどうかはわかりませんが、この本は結構高値がついていました。それで更に、この本を図書館で無料で借りて読むことができる幸せを感じてしまいました。文字通り現金な話ですが(笑)。

 

第1章 祖父、渋沢栄一
祖父の死/万屋主義、論語とそろばん/女子教育推進/飛鳥山の屋敷/「サボン」の思い出

第2章 青春時代
あさましきお姿/幕末の志士/運命の皮肉

第3章 プリンス昭武一行の出航
船中/マルセイユ着/パリ着/憧れのパリへ
著者と随行者の女性二人で、13都市約四千キロを訪ね歩く
百二十年前、祖父が若殿さまと歩いた道と同じその道をたどりたい。幕府最後の威信を慶喜の家臣としてパリ万博に賭けて戦った祖父の青春の鼓動に、私もふれてみたい。歴史と伝統を保持するフランスのことだ。祖父の目に映った景色がそのまま残っているかもしれない、と期待は大きくふくれ上がった。p50

第4章 宮廷外交はじまる
モンブラン伯/ナポレオン三世の謁見式/グランド・ホテルからシャルグランの借家へ



第5章 ペルゴレーズ館へ
ペルゴレーズ通り/パリのオペラ座舞踏会/昭武、ペルゴレーズ館へ移る

第6章 パリ万国博覧会
陳列場/日本茶屋 
人気のあった江戸の茶屋
柳橋の芸者おすみ(寿美)、おかね(加称)、おさと(佐登)という娘たちが煙管で煙草をふかしたり、茶を点てたりしている。これが新聞に出て大評判となった。p86
この三人は「公用」としてヨーロッパに渡った日本女性の第一号である。p87
褒賞式/日本の曲芸団/ヨーロッパ巡歴へ/イギリスへ

 

第7章 昭武留学生活
ペルゴレーズ仮御屋形/風雲急を告げる日本/慶喜の直書
C・ポラック氏によると、パリの古文章館かどこかに、昭武宛の慶喜の手紙が残っていたという。彼の分析によると、慶喜はパリに亡命し、幕府を存続させることを願っていたという、が…
今後の研究を待つこととしよう。p122-123
鳥羽伏見の戦い
1868年5月13日の帰国者の送別会のメンバーの中にティソ(画の先生。昭武の肖像画が現存している)p127
(ジェームス・ティソ(1836-1902)、以前、ディジョンの美術館のHPを見ていた時、浴室の日本女性を描いた妖艶な絵画を見てドキリとしたことがありました)
5月30日の日記に「朝水練御稽古初」とある。昭武はセーヌ河で泳いだらしい。栄一はお供をしている。栄一も泳いだのだろうか。しかし祖父の水泳にまつわる話をきいたことはない。p131-132
(パリの聖月曜日(岩波現代文庫)によれば、1831年当時では、セーヌ川での水浴は警察が禁止していたが、セーヌの河岸には庶民でも入ることができる水浴場があったそうです。しかしかなり衛生上問題があったようです。四十年近く経って改善されていたのでしょうか?)
昭武帰国命令

 

第8章 ノルマンディ、ブルターニュ
シェルブール/カン/パリ/ルーアン/ル・アーブル/ナント
栄一は勉強したフランス語を、黒革手帳には一部しかないが、アルファベット順に単語と訳語を付記して書き留めている。
「こんにちは」をJ'ai l'honneur de vous souhaiter le bonjour(私は貴下に佳き日を祈る名誉を有す)、「私は便所へゆく」という言葉をJe vais où le roi va tout seul(私は王も一人でゆく所にゆく)、などと記してある。
著者の父(渋沢秀雄)が書いた『渋沢栄一』で読んだのを思い出したのだが、やはり時代を感じさせる日本語訳である。p165
カンペール/ブレスト



第9章 パリを去る
帰国の途、栄一八面六臂の活躍/パリを出発/ボルドー
昭武のヨーロッパ巡歴も含めて、全行程を供したのは栄一だけである。忠義を重んじる彼は、義経を守る弁慶の心意気さながらの心境だったろう。p185
バイヨンヌへ/ビアリッツ/トゥールーズへ/アルビ/マルセイユ

 

第10章 動乱の祖国へ
マルセイユ出港/シンガポール、香港、上海、横浜、東京
昭武は十四日の日記(フランス語)に「朝、日本の陸地が見えた。正午頃、あのごろつき薩摩(gredin satouma)の横を通過した」と少年らしい表現で博覧会場のことを思い出している。p217

第11章 帰国後の栄一
常平倉(じょうへいそう)/大蔵省租税司正
栄一はしみじみと過去を振り返った。不本意ながら一橋家の家来となり、不満な心で幕臣となり、こんどもまた思いがけずに新政府の役人になってしまい、運命の皮肉を痛感した。p226
大蔵省辞職、第一銀行設立
1873年(明治6年)5月、二人(井上馨渋沢栄一)は連袂辞職をした。そして二人は連名で政府宛の建白書を新聞に発表した。
それには歳入歳出の数字をあげ、国家の財政は収入を知った上で支出すべきなのに、政府はその逆を行っていると、その反省をうながした。p230
(その反省もなきまま、今や日本は多額の国債で財政が硬直化してしまっているのは哀しい限り)
論語とそろばん
栄一は欧米列強に負けじと非文明国日本に、フランスで見聞した経済諸制度の種をまいた。また彼は大蔵大臣の役職を断り下野した。そして、栄一の持論「道徳と経済合本論」論語とそろばん、という儒教的発想のモラルを忠実に、ひたすら国の発展のため邁進した。そして彼は自ら設立した多数の会社のオーナーに定着せず、政商にもならず、清廉を誇りとしていた。利潤の追求と私利私欲という矛盾を、彼自ら生涯をかけて克服した。p237