フランスが生んだロンドン イギリスが作ったパリ
フランスが生んだロンドン イギリスが作ったパリ
ジョナサン・コンリン 著
松尾恭子 訳
2014年12月10日 第1刷発行
本書はパリとロンドンの交流によって生まれた物事、あるいは強い影響を受けた物事について取り上げています。
二つの都市の歴史を比較し、交流の歴史をひも解いています。
パリとロンドンは「歴史の交差」によって、単なる都市ではない、今日のような世界の中心都市へと姿を変えました。
(歴史ある大国の首都が、海峡を挟んでいるとはいえ、このような近距離にあるのは稀有な例といえます)
なお原題はTALES OF TWO CITIES PARIS, LONDON and the Birth of Modern City です。
第1章 穏やかならぬ家
1789年頃、パリのアパートメントとロンドンのテラス・ハウス(連棟住宅)
パリは一つの建物に15世帯から18世帯が入るが、ロンドンは一世帯か二世帯しか入っていない。
家庭を大切にするため持ち家志向のロンドン市民、城壁の中で暮らさなければならないため、住宅は必然的に高層化したパリ。
第2章 通り
パリの「遊歩者」
あてどもなく通りを歩きながら、印象を集める。群衆に紛れる匿名性はスリルがあり、かつ高尚だ。
18世紀後半、ロンドンの通りは歩行者に優しく、パリでは馬車が通りの王だった。
パリの通りの泥の多さはロンドンの比ではなかった。
18世紀、通りに動物や物をかたどった大きな看板が掲げられていた。
広告媒体であり、街を歩く時の目印でもあった。
第3章 レストラン
パレ・ロワイヤルの改造は、1781年から1784年にかけて行われた。
ヴィクトル・ルイが回廊を設けた一階は商店街になった。
クラブや専門街、そしてレストランなどが、1784年4月から営業を始めた。p131
第4章 ダンス
フランスの「国のダンス」であるカンカンは、1830年頃に生まれ、やがて「陽気なパリ」を象徴するものの一つになった。
しかし実は、今日、フランスで「フレンチカンカン」と呼ばれているダンスは、フランスのカンカンとイギリスのスカート・ダンスが融合したダンスである。
ふたつの都市のダンサーが、互いに行き来する過程で、相手の国のダンスを取り入れていったのである。p182
スカート・ダンスは、スカートを両手で持って動かしながら、ワルツなどの伝統的なダンスを音楽に合わせて踊るダンス。p213
第5章 夜の街と密偵
18世紀から19世紀にかけて、パリとロンドンで生まれた探偵小説の歴史。
またホームズやふたつの都市の、夜の姿の変化について。
探偵という言葉は、1870年にイギリスからフランスに伝わった。
しかし、フランスでは18世紀に、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌが、探偵小説の起源といってよい作品を発表している。
レチフは多くの作品を残しているが、ガボリオと同じく、現在は忘れられた作家となっている。p235
(オーセールの街には、レチフのカラフルな像がありました)
レチフは自らを「観察する梟」と称し、夜の街を探索した。
ウジューヌ・フランソワ・ヴィドックの波乱の人生。その中でフランスの警察の密偵としても活動する。
パリにおいて、密偵である「観察する梟」が登場し、その1世紀後、ロンドンにおいてドイルがホームズを生み出した。
第6章 死者と埋葬
パリの共同墓地の中で、特にロンドンの共同墓地に影響を与えたのは、ペール・ラシューズ墓地である。
なお、パリの共同墓地は反教権主義的だった。ペール・ラシューズ墓地は1804年に開設された。p282
ロンドン郊外の共同墓地を作ったのは、政府ではなく民間企業である。ケンサル・グリーン墓地は、総合墓地会社(GCC)が作った墓地だ。この株式会社は、現在も墓地を運営している。p302
現在、ロンドンのナンヘッド墓地や、パリのペール・ラシューズ墓地から眺めるふたつの都市は、どちらもずいぶんおとなしい。
墓地から見る街は、アクアチント版画のようだ。墓地の木々の葉の額縁で囲まれており、とても美しい。p327