オーセール近郊、Accolay村の無人駅

Accolay駅のホーム

オーセールを離れ、夜は近郊のAccolayという村の宿泊地に泊まりました。
画像は朝早く起きて、村内を散歩していた時のものです。
宿泊地近くに、鉄道の駅がありました。
いかにも、田舎の単線の無人駅という風情を漂わせています。
この駅についてネットで調べていたら、2017年に駅名のプレートが盗まれ、元村長さんがそれを再生するという記事を見つけました。その記事には、1873年に沿線が開通した後、1891年にこのAccolay駅が開設したとかいう経歴も載っていました。当時はこの村はワイン生産が盛んで、その輸送のために開設したとのことです。
またその記事によれば、現在ではこの駅に電車が停車することはなくなったそうです。
確かにグーグルマップで見ても駅舎らしい表示はなく、代わりに村内の道の場所でterという表示と時刻表が出てきました。terはwikiによると
「地域圏急行輸送(フランス語:Transport express régional)は、フランス国鉄が地域圏ごとに行なっている鉄道およびバスによる旅客輸送サービスである。通常はTER(テーウーエル)と略される」
ということです。
電車の代わりに、バスで代替輸送しているということでしょうか?
いずこも同じ、過疎と公共交通の現状といえそうです。
記事の締めに、その元村長さんがAccolay駅に再び鉄道が停車することを夢見ていると書いてありましたが、その気持ちがよくわかります。

(L'YONNE REPUBLICAINEのHPを参考にしました)

 

 

 

オーセールのサン・ジェルマン修道院に見送られながら、さよなら

オーセールのサン・ジェルマン修道院とヨンヌ河

 

オーセールの街を見学し終わり、ヨンヌ河を渡って駐車場に戻ります。
サン・ジェルマン修道院の偉容が、川船と共に川面にも、おぼろげに浮かんでいます。
最後にサン・ジェルマン修道院の歴史について拙訳で振り返ってみます。

 

Saint Germain, évêque d’Auxerre, meurt à Ravenne en juillet 448, alors qu’il effectuait une mission politique auprès de l’impératrice Galla Placida. Rapatrié solennellement dans sa cité, son corps est inhumé le 1er octobre 448 dans l’oratoire qu'il avait fondé en l'honneur de saint Maurice d’Agaune dans l’habitation qu’il possédait à l’extérieur des remparts.
オーセールの司教である聖ジェルマンは、皇后ガラ・プラシダへの政治的任務中、448年7月にラヴェンナで亡くなりました。厳粛に街に戻った彼の遺体は、448年10月1日、城壁の外に所有していた住居に聖モーリス・ダゴーンに敬意を表して設立した礼拝堂に埋葬されました。

 

La réputation de sainteté de Germain est telle que très vite des foules accourent pour le vénérer.
ジェルマンの神聖の評判は、群衆が彼を崇拝するためにすぐに群がったというものでした。

Au VIe siècle, la reine Clotilde, veuve de Clovis, pour honorer dignement le saint, intègre le tombeau et l’oratoire primitif dans une vaste basilique où vont désormais se faire enterrer la plupart des évêques d’Auxerre. C’est l’origine de l’abbaye Saint-Germain. Les dons des rois, des évêques et des pèlerins accroissent rapidement l’importance du monastère qui échappe, grâce à ses fortifications et à sa position élevée, aux pillages des sarrasins puis des normands.
6世紀、クローヴィスの未亡人であるクロティルダ女王は、聖人を尊厳をもって称えるために、墓と原初的な礼拝堂をオセールの司教のほとんどが埋葬される広大な大聖堂に統合しました。これがサンジェルマン修道院の起源です。王、司教、巡礼者からの寄付により、修道院の重要性が急速に高まりました。修道院は、要塞であり高い場所にあるため、サラセン人、次にノルマン人による略奪から逃れました。

 

Aux VIIIe et IXe, avec les Carolingiens la basilique funéraire de Germain devenue église d'une communauté monastique est sous la protection royale. Sous le règne de Charles le Chauve (843-877)  l’abbaye connaît son apogée.  Le roi manifeste une grande vénération pour le saint évêque, comble de dons le monastère et y fait de fréquents séjours. Il assiste à la translation des reliques dans la nouvelle crypte que son oncle Conrad a réaménagée en 843, pour remercier Germain d'avoir contribué à sa guérison.
8世紀から9世紀にかけて、カロリング家と共に、修道院共同体の教会となったジェルマンの葬祭大聖堂は王室の保護下にありました。シャルル禿頭王 (843-877) の治世下で、修道院は最盛期を迎えました。王は聖なる司教に大きな敬意を表し、修道院を贈り物で満たし、そこを頻繁に訪れました。彼の回復に貢献してくれたジェルマンに感謝するため、叔父のコンラッドが 843年に修復した新しい地下室の遺物の譲渡を助けました。

 

A cette époque, l’abbaye devient un des centres intellectuels les plus renommés de l’Occident chrétien et participe largement à la Renaissance carolingienne. Son école monastique attire l’élite de la jeunesse venue écouter les leçons de maîtres célèbres comme Héric, Rémi et produit des manuscrits diffusés dans les autres monastères.
当時、修道院は西欧キリスト教の最も有名な知的センターの 1 つとなり、カロリング朝ルネッサンスで大きな役割を果たしました。その修道院の神学校は、エリックやレミなどの有名な巨匠の講義を聞き、他の修道院で配布される写本を作成するためにやって来る若者の精鋭を魅了しています。

Jusqu’à la fin du Moyen Age, le monastère prospère. Bâtiments conventuels, cloître sont agrandis et rénovés entre les XII et XIVe et une vaste église gothique aux fenêtres rayonnantes est élevée.
中世の終わりまで、修道院は繁栄しました。12世紀から14世紀にかけて、修道院の建物や回廊が増築され、改装され、輝く窓のある巨大なゴシック様式の教会が建てられました。

 

Pendant la guerre de Cent ans, les Anglais, maîtres de la ville en 1359, ne peuvent s’emparer de l’abbaye bien défendue.
百年戦争中、1359年に街の支配者であったイギリス人は、十分に防御された修道院を占領できませんでした。

En revanche, en 1567, les Huguenots l’investissent, le saccagent et détruisent les reliques de Saint Germain. Les moines disparaissent  pendant plusieurs décennies. 
一方、1567年にユグノーが包囲し、略奪し、サン・ジェルマンの遺物を破壊しました。修道士は数十年間姿を消します。



L’ordre est rétabli à partir de 1639 quand les Bénédictins réformés de Saint-Maur s’y installent. Ils reconstruisent les bâtiments conventuels, le cloître et les cryptes reçoivent de nouveau des pèlerins  parfois illustres tels, en 1656, la reine Christine de Suède ou en 1658 le roi Louis XIV venus honorer Saint Germain. La tradition intellectuelle  se poursuit avec les travaux de moines érudits comme Dom Viole et l’installation dans les locaux, en 1788, d’une partie des élèves du collège militaire (actuel lycée J. Amyot)
秩序は1639年にサン モールの改革ベネディクト派がそこに定住したときに回復しました。彼らは修道院の建物を再建し、回廊と地下室は、時には1656年にスウェーデンのクリスティーヌ女王や 1658年に聖ジェルマンを称えるために来たルイ14 世など、輝かしい巡礼者を迎えました。知的な伝統は、ドム・ヴィオルのような学識ある修道士の仕事と、1788年に軍事大学 (現在の高校 J. アミオット) の生徒の一部が敷地内に住んだことに引き継がれています。

 

La vie religieuse est détruite par la Révolution. L’abbaye perd ses biens vendus comme Biens Nationaux, les moines se dispersent mais le Directeur du collège sauve les bâtiments de la destruction en obtenant de la Convention le maintien d’une École en l’an IV. Depuis 1796 y sont entreposées les premières collections d’œuvres d’art, embryons du musée.
宗教生活は革命によって破壊されます。修道院は国家資産として売られ資産を失い、僧侶たちは解散しますが、コレージュの長は、国民公会(1792-1795)からIV年に学校の維持を取得することにより、建物を破壊から救います。1796年以来、芸術作品の最初のコレクション、博物館の萌芽がそこに保管されています。



Au XIXe, l’avant-nef délabrée est détruite laissant le clocher isolé. A partir de 1826 l’abbaye devient un Hôtel Dieu et le demeure jusqu’à ce que la ville d’Auxerre rachète les bâtiments et y aménage, entre 1980 et 2003 les salles d’exposition du musée tandis que le Centre d’études médiévales réalise des fouilles sous l’avant nef.

Dans l’église toujours vouée au culte on continue à honorer Saint Germain.

19世紀には老朽化した正面の身廊が破壊され、鐘楼は孤立したままになりました。1826年から修道院は(修道院の経営もしくは昔の施療院を前身とする)中央病院になり、オーセールの町が建物を購入し、修繕しました。1980年から 2003年の間に中世研究センターが正面の身廊の下で発掘調査を行う間展示室でした。 

現在も礼拝に専念している教会では、サンジェルマンを敬い続けています。

 

(原文はLa paroisse Saint-Germain d'Auxerre のHPからの引用です)
 

イタリア初の女性首相誕生か?

イタリアの初の女性首相となるか?ジョルジャ・メローニ党首

少し前の記事で、フランスで二人目の女性首相誕生について書いたのですが、お隣のイタリアでは初の女性首相が誕生するかもしれない、とのことです。イタリアとフランスでは首相の権限や任命方法は明らかに異なるため、単純に比べるのも変なのですが、それでも隣国ということもあり、最終的にはどうなるのか気になります。
イタリアは首相とかの政治情勢が、なんだかいつも揉めて不安定な印象があります。偏見もあるのかもしれませんが。

【パリ時事】イタリアで、初の女性首相が誕生するかもしれない。

事実上の連立政権崩壊に伴い、9月25日に前倒し総選挙の投票が行われる。伊メディアによれば、政党支持率で首位に立つ「イタリアの同胞(FDI)」を中心とした右派連立政権発足の可能性が高く、FDIのジョルジャ・メローニ党首(45)が首相を狙うと報じられている。
◇唯一の野党
ドラギ政権は昨年2月、ほぼ全政党から支持を得て発足したが、メローニ氏のFDIは加わらなかった。ほぼ唯一の野党となって政府を批判し続けた。

この戦略が的中した。エネルギー需要回復などで昨年から続く燃料高騰や、ウクライナ侵攻に伴う物価高に苦しむ庶民の怒りを受け止め、支持急拡大に成功した。

「イタリア人はこの茶番劇に付き合う必要はない」。20日の上院での信任投票を前に、メローニ氏は訴えた。連立与党の一角、左派「五つ星運動」の内紛に端を発したドラギ氏の辞任騒動を突き放し「FDIは首尾一貫している」と右往左往する連立各党を嘲笑した。

メローニ氏は1977年、ローマ生まれ。政治活動に飛び込んだのは15歳、92年のことで、ミラノ地検が政治の腐敗を次々暴いた激動の年だ。第2次大戦直後、ムソリーニ支持者が結成した「イタリア社会運動(MSI)」に身を投じ、腐敗した既得権層を批判した。MSIの後継政党「国民同盟」の学生部で全国指導者も務め、国民同盟と合併した「フォルツァ・イタリア(FI)」創設者のベルルスコーニ首相(当時)に見込まれ、2008年に閣僚に抜てきされた。

◇恐れるな
伊ANSA通信によれば、FDIの支持率は約23%でトップ。極右「同盟」が13~14%、FIが約8%だ。3党は「中道右派連合」として関係が深い。選挙後の最大勢力になると見込まれている。

ただ、FDIと同盟は元来、欧州連合EU)懐疑派。コロナ後の経済復興で頼るEUの結束をイタリア自ら乱すと3党の政権を恐れる声もある。これを意識するメローニ氏は最近、対EU批判を弱め、ロシアの侵攻を受けるウクライナへの支持を表明、国際社会と同調する姿勢も見せている。

メローニ氏は23日、イタリア紙スタンパ(電子版)に「恐れることは何もない」と語るなど懸念の払拭(ふっしょく)に懸命だ。投票まで2カ月。離合集散の激しいイタリア政治の一寸先は闇で、選挙後の運命はメローニ氏自身にもまだ分からない。

宇宙なんちゃらこてつくん、のルーツは星の王子さま?

宇宙なんちゃらこてつくん

画像の「宇宙なんちゃらこてつくん」
最近、妙に気にいって、ちょくちょくテレビでみています。
みんなが素朴に宇宙を目指す、前向きな姿勢がいいですね。 
ところで、この登場人物は、みんなイヌ、ウサギ、ネコ、クマなどのわかりやすい動物なのに対し、主人公のこてつくんは、wikiによるとフェネックとなっていました。
キツネではなく、フェネックというのがマニアックです。
フェネックは耳の長いキツネです。この動物はなんといっても、サン・テグジュペリの「星の王子さま」に出てきていることで知られています。王子様と馴染みになる、というか飼い慣らされたがるキツネです。
主人公を星の王子さまから持ってきているのが意外で渋いですね。
星からきた王子さま。そして大空を駆け巡ったサン・テグジュペリ。ちなみにこてつくんも空におけるサン・テグジュペリの如く、ゴーグルを愛用しています。
宇宙なんちゃらこてつくん、も、彼らの影響も含んで描かれているのかなと嬉しくなってきます。

 

 

フランス下院選挙の結果

フランス下院選挙の今回と前回の比較

 

2017年のフランス下院選挙結果

 

今回のフランス下院選挙結果

 

上から、フランス下院選挙の今回と前回の比較、前回2017年の結果、そして左右ではなく、左から得票数の多いグループを表した表です。

極端な方向にいっているのが残念なような気がします。

 

窓際のにゃんこちゃん

外を見ているにゃんこ

窓際のにゃんこ

 

うちのにゃんこです。

狭い窓際でも、落ち着いて外を見ています。

時々、鳥の口真似もしているように思えます。

窓際のにゃんこ

ふにゃ、この場所も結構落ち着くのにゃ。

 

オーセールのサン・テティエンヌ寺院とヨンヌ県庁

オーセールのサン・テティエンヌ寺院とヨンヌ県庁

 

オーセールのサン・テティエンヌ寺院を、前回とはちょっと違う場所から撮ります。
その寺院の前に立派な邸宅のような建物がありました。
2001年当時のパンフレットを参照すると、これはヨンヌ県の県庁とのことです。オーセールはヨンヌ県の県都でもあるのです。
現状をグーグルマップで確認してみると、この場所ではなぜかポールダンスの教室が開かれており、県庁は県庁広場沿いの別の建物のようにも見えました。誤りかと思われますが、詳しいことはよくわかりません。
この建物はもともとオーセールの司教館として使われていたものを19世紀に県庁として転用しました。
ちなみに県庁広場は以前、参事会聖堂が建てられていた場所を、大革命時に取り壊され、広場になったようです。
このように、大革命後、参事会の敷地や建物は、国に没収された上、売られたり、取り壊されたりしてしまったようなのです。
まさに、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状態だったわけです。
それに比べると、司教館は他の施設に転用されて生き残ったケースは多いようです。
オーセール以外でも、トゥールーズでは同じく県庁、ボルドーでは市役所、ランでは裁判所、ランス、ストラスブール、トロワ、アルビなどでは美術館に転用されているそうです。

(現地のパンフレットおよび「大聖堂」文庫クセジュ、を参考にしました)