物語 パリの歴史 「芸術と文化の都」の2000年 (後半)

第6章 文化革命としてのフランス革命
1 多岐にわたった大きな変化
ほぼ革命期だけで終わった革命暦(共和暦)
一週を10日、一ヶ月を三週30日、各月には季節を表す名前
西暦であるグレゴリオ暦は、かつて教皇庁がその制定に関わった経緯があるから、信仰の自由と「政教分離(ライシテ)」を原則とする国民主権の国家とは適合しない、という発想
また十進法の方が合理的という考え方

2 表象の多様な噴出
ビラやチラシ、風刺画などの図像はパリ市の歴史ミュージアムであるカルナヴァレが豊富

3 人類の芸術遺産をパリに集めよ!

第7章 ロマン主義以降の芸術文化と新たなパリの中心性
1 古典主義の権威とロマン主義の台頭
革命期に荒廃して以降そのままだったパリのノートルダム大聖堂が、本格的な修復へと向かう。
それは、フランス各地で進められた歴史的建造物の修復保存や史跡保存の組織化と連動していたが、その司令塔はパリにあった。
その史跡監督官として力を発揮したプロスペル・メリメは『カルメン』を書いた文学者でもあった。p134

2 異分野交流と芸術グループ内での切磋琢磨 

3 作品を通して浮き上がる世界とフランス

第8章 パリ大改造序曲 啓蒙のアーバニズムからランビュトーの美化政策まで
1 「文明都雅」の先端と映った19世紀後半のパリ
1872年の暮れ、パリを訪問した岩倉使節団
パリの風景の素晴らしさに目を奪われる使節
都市の文化的なイメージを決定づける上で、街路状況や建物群が生み出している雰囲気、その場で生きる人々の様相、一言でいってしまえば全体的な都市景観がもたらす力は、無視できない。p152

2 バロック的な都市改造から啓蒙のアーバニズムへ

3 革命期からナポレオン体制化の都市空間

4 復古王政七月王政期の都市整備

第9章 ナポレオン三世と県知事オスマンによる大改造
1 ルイ・ナポレオンボナパルトの政治的浮上と第二帝政の開始

2 大改造のポイント
パリ市内の建築については、建物相互に隙間を空けずに列をなすように建築し、道路幅がどのくらいなら、どれほどの高さの建築が許可されるかなど、18世紀からかなり細かな規制のもとに置かれていた。オスマン化も基本的にこうした伝統を受け継いでいたと言ってよい p189

上水道はセーヌやマルメの川水ではなく、その支流の、それも水源から延々と、直接導水路で引き込むという、それまでには誰もが発想しなかった方式が採用される。p191
(古代ローマ時代に、似たようなことをしていたように思います)

第10章 モードと食と「コンヴィヴィアリテ」
1 モードの先端を発信してきたパリ

2 パリにおけるレストラン、カフェ、ブラッスリー
コンヴィヴィアリテ
互いに言葉を交わし、共に生きていること
レストランやカフェなどが、それを感じる共食空間p209

終章 芸術文化を押し上げる力 私と公の両面の作用
1 芸術文化の新たな飛躍の舞台パリ

2 画商・コレクターが果たした役割

3 芸術文化振興への政策的関与とパリ万博

 

物語 パリの歴史 「芸術と文化の都」の2000年 (前半)

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物語 パリの歴史 「芸術と文化の都」の2000年 表紙

 

物語 パリの歴史
「芸術と文化の都」の2000年
福井憲彦 著
2021年8月25日発行
中公新書 2658

はじめに より
多くの人にとってパリと「芸術文化」というイメージの結びつきは強い。どこから、それは感じられるのだろうか。どうして、またどのようにして「芸術文化の都市パリ」は、またそのイメージは、形成されてきたのだろう。
本書でたずねてみようとするのは、この問いである。

序章 パリのエコロジーと歴史の始まり
中世からパリ市の紋章に船が描かれるのは、まさにセーヌとの関わりの重要性を示している。パリは港であった。もちろんセーヌの川港である。p6

第1章 キリスト教とパリ
1 教会の多い町パリ

2 襲来する外敵と戦うパリ
フランスの社会と文化を捉える場合には、単一の、あるいはごく少数の、民族ないしエスニック集団の単位で考えてはいけない。
特にパリが位置するイル・ド・フランス地域は、古くからのケルト系、ローマからのラテン系、そしてより北方のゲルマン系緒集団が、この地で相互に交流し、時には権力闘争を展開した。p22

第2章 王権のもとで学術文化の都となる中世パリ
1 中世の王権と王都パリの整備
パリは元来、カペ朝のお膝元であったが、フィリップ二世の祖父ルイ六世は改めて1112年に、パリに、王都としての特別な地位を公認した。
カペ朝の古くからの拠点オルレアンもロワール川のほとりにあり、東西と南北のフランスをつなぐ要衝にあるという点では、十分王都の候補たりうる位置にあった。p29

2 セーヌ左岸に始まる新たな学術文化の輝き

3 パリ大学とソルボンヌ

第3章 職人・商人文化の発展と中世末の暗転
1 20万都市パリの発展
セーヌ川は上流でも下流でも、多くの河川を支流として合わせるので、全体の流域はかなりの範囲になり、水運が発達した理由につながっていた。
ロワール川の流域が、国王の一時滞在用の居城を置くには適していても、王国の中心にならなかったのは、ロワール川の流量が季節的に安定していなかったのも一因ではないか、という推定もあるくらい、水量の安定性は必要であったが、セーヌはこの点、問題はなく、むしろ時たま生じる増水の方が問題であった。p44

2 ギルドを形成した職人・商人と市民生活
職人の社団のなかでも、とりわけ歴史が古く威厳のあった団体が肉屋(ブシュリ)だというのも、象徴的である。
戦う人である貴族をはじめ支配階層にこそ重要であった肉という食料を、独占的に扱った彼らは、市政への発言力も強かった。p52

3 危機の時代のパリ

4 パリの戦闘的な自治の姿勢

第4章 ルネサンスのパリ ー王都から王国の首都へ
1 ルネサンスの魅力とイタリア戦争

2 世界のなかのフランス、その王国の首都としてのパリ
1539年、フランソワ一世による「ヴィレル・コトレの法令」により
・文書主義と国家言語統一に向けての第一歩。法令や裁判等の実践は、公文書として記録に残すこと。それにはラテン語や各種の地域言語ではなく、フランス語で記すこと。
・中世以来の各小教区で、教区民の洗礼と埋葬の記録を必ずつけ、毎年それを国王役人に届け出ることを義務化。戸籍登録の原型。p78-79

3 人文主義と学術文化の再活性化

第5章 17・18世紀パリの文化的発展と王権
1 新たな行動様式とアカデミーの創設
17世紀はヨーロッパ史においては「危機の時代」
気候の寒冷化と悪天候による農業の不振や飢饉
疫病の流行
三十年戦争といった長期の国際紛争
フランスでは絶対王政と呼ばれる政治体制で、一定の安定を見せていた。

2 文化活動の高揚とサロンの活性化

3 17・18世紀のパリ都市空間の整備再編
 

屋根の無い時代のオランジュの古代ローマ劇場

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2001年当時のオランジュ古代ローマ劇場の壁

 

オランジュの古代劇場の巨大な壁です。客席の高い位置から撮影したものと思われます。
壁の上部には、古代ローマ時代においては舞台や壁の装飾を保護するために、木製の屋根が設置されていました。
しかし4世紀に火災により焼失してしまいます。 
ここを訪問したのは2001年の初夏だったと思うのですが、その時は画像のように、屋根はありませんでした。
しかし20世紀から、屋根を再建したいという気運が高まってきており、2006年にはついに鋼鉄とガラスによる近代的な屋根が完成しました。
遺跡の忠実な再建となると、少なくとも外観だけでも木製にするべきだったのでしょうが、壁部分の保護や舞台としての現代的な機能を考慮すると、現時点で最善とされる資材を使ったモダンなデザインの方がよい、という結論に達したのでしょうね。
もちろん、その決定までには、オランジュの人々やフランスの遺跡関係者による侃々諤々の意見の応酬があったのかと推測されます。
今となっては、屋根の無い時代の画像が貴重になっています。20年ほどの期間ですが、変わるときには変わるものです。同じような例として、シノンのお城も、訪問時には廃墟みたいな場所も多かったのですが、今は建物がしっかり再建されています。
遺跡というものが、過去を現すだけでなく、その時代時代の社会状況、そして人々の思想や意志を反映しているものだなぁと、いつもながら再認識させられます。


(Théâtre Antique&Musée d'OrangeのHPを参考にしました)

 

オランジュの古代ローマ神殿遺跡

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オランジュ古代ローマ神殿遺跡

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オランジュの古代神殿遺跡の構造と古代劇場などの復元図

 

オランジュの古代劇場の中に入ります。
まずはすぐ隣にある神殿の遺跡の写真を撮っていました。
装飾された円柱のようなものが目立っています。
オランジュ芸術歴史博物館(Museum of Art and History of Orange)のHPでの仏英語解説によると

1920年代に行われた発掘調査により、半円形の中心にある大きな石畳の上に建てられた神殿とその祭壇の遺跡が明らかになりました。かつては52本の柱で構成された半円形の柱廊玄関に囲まれていました。一部の考古学者は、これらの遺跡を円形競技場や競技場の遺跡と見なしています。今日では一般に、劇場と半円形の建物は、皇帝アウグストゥスの崇拝に捧げられたと考えられています。
神殿は幅24メートル、長さ35メートルで、基壇(古代神殿などが建つ高い石造りの土台)の上にそびえ立っていました。大きな舗装された通りが神殿と劇場を隔てていました。神殿の北、道路と博物館のある場所に、公共広場が広がっていました。神殿の広場に隣接する壁には、1年の12か月を象徴する12の噴水が飾られていました。》

二枚目の画像は、遺跡の構造と復元図です。
競技場も古代ローマ遺跡ではよく見られるのですが、この場所は今では神殿説の方が有力なのですね。

 

オランジュのサン・フローラン教会

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オランジュ古代ローマ劇場外壁とサン・フローラン教会

さて、今回から本当にオランジュとなります。
まずは古代ローマ劇場の舞台背後の壁の外側からです。
この壁は赤い砂岩を積み上げて造られ、高さは37mにも及ぶそうです。(週刊世界遺産No.30より)
古代ローマ劇場については後で詳しく取り上げますので、ここでは左下隅にそっと写っている建物を紹介します。
これはサン・フローラン教会の正面です。
この教会について、オランジュ観光案内所(Office de tourisme d'Orange)の仏英語HPによると、

《15世紀には、オランジュには多くの修道会がありました。聖フローランの修道会はフランシスコ会修道者の教会でした
アルルのサントロフィーム教会に由来する折戸の玄関口は、質素なゴシック様式ファサード(15世紀)の一部です。

宗教戦争の間、「プロテスタントは、オランジュ公がいる教会を容赦なく台無しにした」と、目撃者は報告しています。
革命中に国有財産として売却され、干し草置き場、厩舎、刑務所として使用され、1803年に教団に戻されます。40年後、小教区を与えられ、聖フローランに奉献されます》

確かにフランシスコ修道会らしく、質素な正面です。
そしてこの教会もフランスの他の教会と同じように、宗教戦争や大革命による被害をこうむってきたようです。

 

 

ニームの垂直式日時計(正午計)

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ニームの垂直式日時計(正午計)

 

前回、ニームの写真は一枚だけと書いていましたが、改めて確認すると、今回の写真も引き続きニームで撮ったもののようです。
いわゆる「日時計」です。市役所周辺で撮ったものだと思われます。
このような壁に取り付けた日時計は「垂直式日時計」と呼ばれます。
更にこの画像のように、数字がⅫだけしかないような日時計は「正午計」と呼ばれます。
このような正午計の用途については、ジャック・アタリ著の「時間の歴史」(蔵持不三也訳, 1986年, 原書房, p.178)に書かれているそうです。
…1750年、カサノヴァは『回想録』にこう記している。≪庭には沢山の人がいたが、彼らは皆じっと空を見上げていた。空に何か素晴らしいものがあるのだろうか。実は(太陽の)南中に注意していたのだ。誰もが手にした時計を正午に合わせようとしていたのである。≫。…
16世紀頃より普及を始めていた懐中時計は、1日に20分余の狂いが生ずるのも珍しくないという有り様で、毎日調整する必要があったそうです。
もちろん現在では、そんな使い方されていないですが、装飾的なものとして残されていたのだと思います。
あと、数字の8を縦長にしたような線は、一年を通した同位置、同時刻の太陽の運動軌跡(アナレンマ)をあらわしていると思われます。
地味ながら、過去の科学技術の名残をさりげなく保存してくれているのは、ありがたいものです。

(「日時計の部屋」のHPおよびwikiを参考にしました)

 

ニームのノートルダム・エ・サン・カストール大聖堂

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ノートルダム・エ・サン・カストール大聖堂の正面(ニーム)

「古の写真でめぐるフランス」シリーズ、ディジョンは前回の「モーゼの井戸」で終わり、今回からはオランジュを取り上げようと思ったのですが、一枚その直前に行ったニームの画像が残っていましたので取り上げておきます。
この教会はノートルダム・エ・サン・カストール大聖堂です。
堂々とした、ちょっとした要塞のような正面です。
この大聖堂について、Nîmes TourismeのHPより訳し、更に専門用語の説明を付け加えると、

1096年に奉献されたノートルダム・エ・サン・カストール大聖堂は、何世紀にもわたって多くの変化を遂げてきました。上部のフリーズ(壁などの帯状装飾)は、南フランスのロマネスク彫刻の主要な作品と見なされています。
建物正面の破風とコーニス(洋風建物の外壁上端,屋根庇の下,天井と壁の境などに置かれる水平の細長い突出部。軒蛇腹)のモチーフである、アカンサス(葉にとげのある双子葉植物)の葉またはライオンの頭は、メゾンカレに触発されています。

正面の三角形のところに上記のような装飾が施されているようです。更に三角形の底辺の下側には旧約聖書の物語が彫られているそうです。

この大聖堂の名称に入っているサン・カストール(Saint-Castor 350-423)は5世紀初頭のアプトという町の司教でした。
ニームとのつながりは彼の生誕地がニームだったことにあるようです。
あとcastorという単語を仏和辞典で調べてみると、動物のビーバーやビーバーの毛皮を意味しますが、ご本人とは特に関係なさそうです。