危ない道を渡るにゃんこに説教

仕事帰り、駅を降りて、踏切そばの道を歩いています。
狭い道にも関わらず、車でごった返しています。
なんでこんな道に乗り入れてくるのかなぁと嘆きながら注意深く歩いていると、突然、にゃんこが動く車列をサッと横切るではありませんか。
危ない!と思いましたが、にゃんこは幸い無事に渡っていきました。
自分も車が途切れてから道を渡り、駐輪場にたどり着きます。
そこにはさっきのにゃんこもチンと座っていました。
「こらっ!あんな道渡って危ないじゃないか!」人差し指(中指ではない)を立てて、にゃんこに説教します。
にゃんこはタバコを吸っているのがばれた不良少年みたいな顔して聞いていました。
「小鳥に説教する聖フランチェスコ」というのがありましたが、こちらは「猫に説教するジェット」です。全くもって俗っぽいですね。
でもやっぱり、危ないことは危ないですからねぇ。
にゃんこも交通安全を心がけて、危ない道は渡らず、冬の冷たい世間を渡って頂きたいものです。

 

播磨百人伝 寺林峻 著

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播磨百人伝 表紙

 

播磨百人伝
寺林 峻 著
のじぎく文庫 編集
神戸新聞総合出版センター 発行
2001年5月1日 第1刷発行
 
播磨にゆかりのある百人を、神代・古代・中世・近世・近代から選んでいます。
このブログでは主にヨーロッパ関係のことについてメモっているのですが、今回は特に欧州関係に限定してみます。
 
幕末の混乱は二つの流れで姫路城下へも及んできた。
一つはロシア、イギリス、アメリカといった国が次々と開国を迫ってやってくる。もう一方では幕府の政治を変えようとして勤王を叫んで立ち上がる志士の波である。この二つの流れに足をかけた姫路の青年がいた。秋元安民である。p206
 
佐幕派姫路藩士の子という古いレッテルで明治維新をくぐり、その後、見事に明治を引っ張る立場に変身してみせる。フランスに留学して近代日本の土木工学のパイオニアとなった。
明治8年には第1回留学生としてフランス行きを命じられ、パリ大学などで学び、5年間で工学士と理学士の二つの学位をとって帰国する。
フランスで公威があまりに根をつめて勉強するので、下宿の女主人が「それではからだをこわしますよ」と注意すると、公威は「私が一日安めば、日本は一日遅れるのです」と答えた、と司馬遼太郎の「この国のかたち」の中にあり。
 
横浜で幕府軍事顧問のフランス人ブリュネから新しい陸軍兵器の扱いを習い、近代兵器を扱う第一人者となっていく。
 
初めて公式に姫路へやってきた欧米人は米国マサチューセッツ州生まれのエドウィン・ベイカーである。p254
 
三木露風は日本のベルレーヌと呼ばれるほど西洋の象徴詩技法をつぐ詩人だった。
 
和辻哲郎の卒論は「ショオペンハウエルの厭世主義および解説論について」だった。
 
25歳で岩波茂雄の援助でドイツに留学してハイデッガーに師事し、さらにフランスに向かい、そこでパスカルの「パンセ」に読みふけり、28歳で帰国した翌年に「パスカルにおける人間の研究」をまとめ、処女出版する。
 
共産党活動で検挙され、獄中で読んだニーチェに感銘し、2年後に転向を表明した。
さらに39歳で思想的な行き詰まりからキリスト教の洗礼を受ける。
 

「米欧回覧」百二十年の旅 岩倉使節団の足跡を追って・米英編

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「米欧回覧」百二十年の旅 岩倉使節団の足跡を追って・米英編 表紙

 

「米欧回覧」百二十年の旅
岩倉使節団の足跡を追って・米英編
泉三郎 著
図書出版社 発行
1993年3月31日 初版第一刷発行
 
〈米国編〉
 
1871年の12月23日、誕生後間もない明治政府は、廃藩置県という大手術の直後にもかかわらず、新しい国家の設計図を求め、不平等条約改正の下交渉も兼ね、大使節団を米欧に派遣する。
使節の構成
岩倉具視(右大臣)、木戸孝允(参議)、大久保利通(大蔵卿)、を筆頭に
伊藤博文山口尚芳、福地源一郎らの若手官僚
8歳の津田梅、25歳の中江兆民らの留学生
など100名を超える大旅行団
 
この企画は、お雇い外国人のオランダ系アメリカ人、フルベッキの発案とされている。
そして大隈重信伊藤博文の提案が具体化していく。p26-27
 
岩倉具視アメリカ上陸以来アメリカ人の親切な歓迎ぶりに驚くとともに大変気をよくしていたが、とりわけ自分がもてることに気づいていた。
しかし、それは大使という職分と自身の人間的な魅力によるものと思っていたに違いない。
しかし息子によれば、もてるのは何よりもその珍妙な髪型やエキゾチックな和装のせいであって、それはむしろ見世物的好奇心の対象であり、文明開化を標榜している日本国の大使としては恥ずべきものだというのである。
それを聞くや岩倉具視は思い切りよくバッサリと髷を切り、洋装に一転してしまう。
これについては、息子たちに言わせたという説が有力
また津田梅子ら振り袖姿の少女たちも洋服姿に変身してしまう。
こうして首都ワシントンを前にしてシカゴでその日本流を放擲してしまう。
 
使節が旅した1872年のアメリカはちょうど大統領選の年であった。
公の選挙で人を選べばいかにもよかろうと思うが、必ずしもよい人材が選ばれるとは限らない。しかも議論が沸騰してきて多数で決すれば往々にして愚策の方が採用されることとなる。
民主はいいけど逆に官に権威がなく、法で縛るのがいいが活社会を妨げることになる。
人々は往々にして私権をむさぼり賄賂が横行する。p131
 
アメリカ建国二百年の歴史を前半の百年と後半の百年に分けると、岩倉使節は前半の成果を見、私たちは今後半の結果を見ていることになる。
 
〈英国編〉
 
「回覧実記」にある銅版画を頼りに現地に行ってみれば、拍子抜けがするほどにその風景は変わっていない。百年というときは英国にきた途端急にしぼんでしまって、つい昨日のようにさえ思われる。p205
 
木戸孝允大久保利通は英国の公式行事以外に、ロンドンの恥部ともいえるイーストエンドの視察に出かけている。
そのころの英国は国全体としては未曽有の繁栄の中にあったが、富める者はいよいよ富み、貧しきものはいよいよ貧しい状況にあった。
カール・マルクスの描いた資本主義の矛盾そのものの世界がそこにあったといってよい。
資本論の第1巻が出たのは1867年でありその改訂版が72年であったから、マルクスはその頃大英博物館の図書室でこの現実と闘いながら執筆に取り組んでいたのかもしれない。
 

ヨーロッパ覇権以前(上) 第1部~

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プロヴァンの城門と城壁

 

第1部 ヨーロッパ・サブシステム
古き帝国からの出現
十字軍は、北ヨーロッパを、「ローマの崩壊」以後引き離されていた世界システムへ再統合するメカニズムだった。p56
 
13世紀「世界システム」のヨーロッパ・サブシステムにおける三つの主要参加者
・とりわけ12世紀、13世紀初頭にヨーロッパの新しい相互作用、あるいは東洋との相互作用を統御するシャンパーニュ大市の諸都市(トロワ、プロヴァン、ラニィ、バール・シュール・オーブ)
・13世紀後半と14世紀初期にこの重要な役割を引き継いだフランドルの工業/商業町(ヘントとブルージュ
・北西ヨーロッパを中東の商品集散地に結び付けたイタリアの主要な海港(ジェノヴァヴェネツィア
 
第2章 シャンパーニュ大市の諸都市
1 経済的交換としての大市
遠距離交易の拡大のためのいくつかの基本的な必要条件
・安全性
・通貨の交換レート、負債の支払いと契約の履行を強制する何らかの方法
 
オリエントとのつながりを持ち、商業的に発展しつつあったイタリアの海港都市と工業的に発展しつつあったフランドルの織物生産地帯の中間のいくつかの場所が共通の出会いの場として選ばれる。
しかしリヨンのようなもっと重要なローマの公道を利用でき、二つの大河川の合流地点にある街ではなく、シャンパーニュ地方になったのか?
前の二つの必要条件に加え、その場所を他の場所より一層魅力的にするための強い動機を持つ者がいなければならない。これが最も重要だった。
 
大市は、近隣の交易、地域的な交易、遠距離交易の組み合わせでできており、それぞれで扱われる商品は、最大限の機動性を必要と知るこれらの商人たちが遅れずに到着して販売できるよう、きちんとスケジュールが組まれていた。
 
交易者の種類
・大市の開催地である町自体の地元商人と、外国商人にサービスを提供する地元住民
・ハンザ(都市商人連合体)に組織されている、他のフランスの町やフランドルの町のからきた商人
シャンパーニュ地方の西側と南側のさまざまなフランス都市から来た商人
ジェノヴァと、それよりははるかに少ないが、ヴェネツィアの港から、あるいはトスカナ地方の内陸都市から来た、北イタリア都市国家の商人
・スペインやポルトガルやドイツ、イングランドスコットランドのようなヨーロッパの辺境地帯から来た、比較的組織化されていない商人
・証拠はまだはっきりしたものではないが、ギリシャキプロス島、シリアなどのオリエントから来た交易者
 
さまざまな町から来る商人たちは、いくつかの相互補助的な目的のために、連合を形成していた。
・大市に行くために、一緒に護衛隊を組んで、安全を確保した。
・(多国籍)カルテルのように活動し、伯から同一の好意的な取引条件を得ていた。
・大きな町から来る商人たちは彼ら自身の独立した宿泊施設、貯蔵倉、商館を維持していたが、小さな町から来る商人たちは、しばしば、施設、書記、運搬人、その他の人員を共有していた。
 
(当時の)イタリア人の類稀なビジネス上の独創性を讃えていたが、それでも十分な評価に値するわけではなかった。彼らは実際は、中東に追随していただけなのだ。p84
 
ブローデルは、シャンパーニュ大市の本当の独自性は、そこで交換された商品にではなく、「そこに見られる金融市場と初期の信用システム」にあると主張するが、それはイタリア人たちが牛耳っていたものである。p86
 
一世紀後、シャンパーニュ大市が衰退した理由
・政治的理由から生じた商人への通行の妨害
シャンパーニュの競争優位性を失わせたフランスへの併合
・大西洋航海を可能とし、イタリアの港ジェノヴァヴェネツィアと北方大織物都市をブリュージュを介して直接航路で結びつけることを容易にしたイタリア船の新型化・大型化
・ヨーロッパの低成長時代の前触れとなった黒死病
フランドル地方への依存度を低下させたイタリア自体の工業化
・イタリア商人たちに行商を止めさせ、書簡や在住の「代理商」、支払い約束書による取引を行わせることとなった、商取引のやり方の変化
 
シャンパーニュ大市からの教訓
・外的な地政的要因が、ある場所が世界交易にとって「戦略的な」重要性をもつかどうか決定する上で、絶対的に重要
・必要とされる交易集散地の型は、隣接地の発達の度合いに大きく左右される
・ヨーロッパ中西部における河川輸送が重要になってきたために、またジェノヴァ人の船が大西洋に出ていける能力を手に入れたために取り残されてしまった。
 
第3章 ブリュージュとヘント フランドルの商工業都市
フランドルが前近代の世界システムにとって最も重要となったのは、1250年からおそらく1320年までの間である。p105
 
13世紀の間に、イタリアの商取引組織は、重大な変化を被っていた。
イタリアの会社の筆頭経営者は、旅をして回る代わりに、本拠地にとどまり、「代理人」が海外の支店を運営するようになっていた。p115-116
 
ブリュージュとヘントの衰退の主要因は、自然的、疫病的、政治的、経済的なものであった。
しかしその中で、政治的・経済的な変動要因の方が、より決定的だったように思える。
依存性が、フランドルの繁栄の基盤であった織物業と、時間をかけて手にした商業的金融市場機能の両方を、徐々にむしばんでいった。p122
 
第4章 ジェノヴァヴェネツィアの海洋商人たち
 
第2部 中東心臓部
東洋への三つのルート
コンスタンティノープルから中央アジアの陸地を横切る北方ルート
・地中海とインド洋をバグダード、バスラ、ペルシャ湾を経由して結びつける中央ルート
アレクサンドリア-カイロ-紅海とアラビア湾そしてインド洋を結びつける南方のルート
 
モンゴルの成功は、この相対的に隔離された中国とヨーロッパを架橋し、生命を危険に陥れる伝染病の拡大を用意する結果をもたらし、14世紀後半の黒死病がその頂点となった。p215
 
モンゴルはその基礎として、貢納に寄生する性質を持っていたころから来る。
モンゴル自身は交易もしなければ生産もしなかったので、その生計を維持するためには、被征服民の技術と労働力に度を越えて依存していた。p229
 
 

ヨーロッパ覇権以前(上) 序論 第1章

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ヨーロッパ覇権以前(上) 表紙
ヨーロッパ覇権以前(上)
もうひとつの世界システム
ジャネット・L.アブー=ルゴド 著
佐藤次高・斯波義信・高山博・三浦徹 訳
岩波書店 発行
2001年11月27日 第1刷発行
 
原題はBefore European Hegemony :The World System A.D.1250-1350です。
 
序論 第1章 システム生成への問い
13世紀のヨーロッパは東洋の後塵を拝していたが、16世紀までには、すでにかなり追い越していた。
・両地域を結ぶ内陸交易ルート上にある諸地域は、13世紀前半にチンギス・ハーンによって統一され、有効な部分をなしていたが、世紀末までには後継者によって分断されてしまった。
・1348年から1351年まで「悲惨な」世紀半ばに中国からヨーロッパに至る全地域に流行した黒死病は、世界交通の海上ルート沿いにあるほとんどの都市を殺戮し尽くした。
 
13世紀後半から14世紀初頭の世界システムをあるがままにみなければならないが・・・
・当時の諸文化は、何を記録するに値するか考えたか、どこに保存されていたのか、またどの程度の細部がどの程度の正確さをもって記録されたのか、などの点で大きく異なっていた。
・データが手元にあるときでも、叙述史料と、現実世界とのギャップの見通しの問題
 
13世紀、
ジェノヴァや中国では、記録し数え上げることが熱心に行われた。
一方、13世紀の交易に参加した三つの主要な民族と地域―中央アジアのモンゴル、マラッカ海峡沿いの小国、はるかに良好な状況のイスラム地域、では控えめな一次史料や、碑文、世俗に無関心な史料しか残っていなかった。
 
13世紀までに、ヨーロッパでは三つの結節点が一つの交易回路を形成しつつあった。
・トロワとプロヴァン、バール・シュル・オーブとラニィからなるシャンパーニュ大市
・フランドルの商業・金融上の中心ブルージュと第一の工業都市ヘント
イタリア半島の両側にある国際交易港、西のジェノヴァと東のヴェネツィア
 
中央の三つの橋頭堡
黒海沿岸にあり、コンスタンティノープルと中国を結ぶ第三のサブシステムが始まる地点
パレスティナの海岸地域にあり十字軍を通して、第四のサブシステムと接触した
・エジプトの北アフリカに第三の橋頭堡を築こうとしたが、十字軍の失敗ののち、エジプトの支配者によって統制された制限付きの交易関係
 

逆光に抵抗するシャンティイ城

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シャンティイ
シャンティイの庭園をさまよった後、城のそばに戻ります。
逆光に負けじと、城の写真を撮っていました。
まず手前の塔のような建物は「宝庫塔」(La Tour du Trésor)と呼ばれています。
その名のとおり、二階の内部は「宝石の部屋」(Cabinet des Gemmes)と呼ばれ、七宝細工や細密画が展示されています。
その隣の少しへこんだ建物は、日本語パンフレットでは「楼台」という少しわかりにくい単語で書かれていました。
フランス語ではTribuneと書かれていました。その意味は演壇、傍聴席、大観覧席と辞書には載っていました。
画像をよく見ると二階はテラスのような感じになってますので、いわゆるそういう的な建物なのでしょう(笑)。
一階には階段もあり、庭園に出られるようになっています。
その庭園は「ヴォリエール庭園」(Le jardin あるいはparterre de la Volière)と呼ばれています。
Volièreは鳥小屋、(大型の)鳥かごという意味です。
庭園のサイズからそのような名称になったのかな、と勝手に想像してしまいます。
そして庭園から濠の水面に橋がかかってますが、これも庭園と同じようにヴォリエール橋と呼ばれています。
「楼台」の更に奥の建物の二階部分は「鹿のギャルリー」(Galerie des Cerfs)と呼ばれています。
ここには狩猟の様子を織り込んだタペストリーが飾られています。 
シャンティイ城の再建に尽力し、そのコレクションとなっている品々を収集したオーマール公の接待用食堂(1880年)だったそうです。

作家たちの原風景 播磨文学紀行2

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作家たちの原風景 播磨文学紀行2

橘川真一 著

姫路文庫 9

ひめしん文化会 発行

神戸新聞総合出版センター 編集・制作

2002年10月25日 第1刷発行

 

上田秋成の「秋山の記」

上田秋成が妻とともに安永8年(1779年)9月、播磨を歩いた時の紀行文。

大阪から須磨・明石を経て播磨に入り、市川沿いに北上し、辻川を通って但馬の城崎に湯治に出かけた。

柳田国男はどの道を通って但馬に向かったのか関心を持っている。p8-9

 

シーボルトの「江戸参府紀行」

文政9年(1826年)に江戸に参府旅行したシーボルト

往路で3月7日から11日まで播磨を見聞

帰路では6月19日から21日まで、海の上から播磨を眺めている。

3月7日、家島群島や赤穂の沖を通り、室(室津)の港に入港する。

室津で一泊し疲れを癒し、裏山の鳩ヶ峰を越え、正条の宿(揖保川町正条)で山陽道に合流した。これを室津道と称していた。

正条から揖保川を小さい舟で渡り、松林の間を歩くと龍野城が見えた。ここでヒバリの声を聞いた。シーボルトの故郷であるドイツのノヒバリに似た声であった。

斑鳩・山田を通って姫路に着いたのは午後も遅くなってからであった。

姫路でシーボルトを最も喜ばせたのは地誌「播磨名所」と見取り図であった。

3月10日、雪の姫路を朝の9時頃出発する。

市川を渡り、曽根で昼食をとった。そして加古川で宿泊。

 

長塚節の播磨路

長塚が播磨に関心を持ったきっかけは、家島からすぐれたうたを送り続けていた、姫路生まれの歌人岡本倶伎羅との縁がきっかけであった。

その倶伎羅とは会う機会もなく終わってしまうが、生涯で三度も播磨を訪れており、有名な白鷺の城のほか、飾磨の海、家島、明石の浜、瀬戸の海などのうたを残している。

明治38年(1905年)には神戸・須磨・明石に倶伎羅と会うため訪問している。しかし既に家島に転地療養のために移っており会えず、

飾磨の海よろふ群島つつみある人にはよけむ君が家島

などの短歌を残している。

倶伎羅は明治39年の秋、病が重くなり、故郷の八重畑に帰って翌年の2月に30歳の若さで亡くなった。

 

空襲の明石を描く、永井荷風の「断腸亭日乗

昭和20年、相次ぐ空襲で東京を追われた永井荷風は6月3日に知人とともに明石に逃れた。

荷風にとっての明石は、焦土と化しつつ日本の中で、ただ一つフランスの詩人マラルメが描いた詩「牧神の午後」を思い起こすような素晴らしい風景であった。p102

そして憧れであったニースに似た景勝の地で、きびしい避難の日々を過ごしていた中でのひとときの安らぎであった。p107

 

数多く残る弁慶伝説 「義経記」に見る書写山

軍記物語「義経記

室町時代の初め頃成立

その中に弁慶と書写山のことが詳しく書かれている。

軍紀というのは一種の語り物のため、史料としての信頼性は薄い。

しかし書写山をはじめとする播磨一円の弁慶伝説から見ると、弁慶が書写山に修行に来たという可能性は残る。