
プトレマイオス地理学
織田武雄 監修
中務哲郎 訳
東海大学出版会 発行
1989年3月20日 第2刷発行
解説以外は現著からの訳になっていますので、専門的な内容の大きくて分厚い本です。
解説 プトレマイオス『地理学』 織田武雄
クラウディオス・プトレマイオスはギリシャ・ローマ時代を通じて、古代の最も傑出した万有学者であり、天文学、地理学の他に、光学、音響学などの研究にも従事している。しかし彼は生年も没年も不明であり、ただアレクサンドリアに在住し、天文観測の日付から125年から151年に活躍したことが知られるに過ぎないが、あたかもハドリアヌス帝からアントニウス帝の時代にあたり、ローマ帝国が最も繁栄し、その版図は最大に達した。
プトレマイオスの天文書に対して、『地理学』は8巻からなっている。
地理学と地誌学を明らかに区別している。
地誌学・・・世界のそれぞれの地域の特殊性を、個別的に詳細に記述することを課題とする。
地理学・・・既知の世界(オイクーメネー)全体を統一体と見なして、その自然や位置などを図表に描出することであると独自の見解を示している。
プトレマイオスの先駆者であるテュロスのマリノスが収集した資料に基づき、これを増補、修正している。マリノスはプトレマイオスを通じてのみ知られた地理学者であり、彼の著作も不明であるが、テュロスはフェニキア人の港市として地中海のレバント沿岸に古くから栄え、ローマ時代にはシルクロードや南アジアからの情報も数多くもたらされたものと思われる。
『地理学』の中央部分をなす第Ⅱ巻から第Ⅶ巻までは、オイクーメネーに関する地理的目録が占めている。諸地域の極めて簡単な記載を除けば、約8100の地点の経度・緯度が、諸国や地域の境界に始まり、山脈や河川、時にはそこに居住する民族、最後に多数の都市や諸地点の順序で列挙されている。
プトレマイオスの地理書もヨーロッパでは千年以上も全く忘れ去られていたが、ギリシャ語を習得したヤコポ・アンジェロはイタリアにおけるギリシャ語の最高権威の一人となり、1400年頃からプトレマイオスの地理書のラテン語訳を開始し、1406年に訳業を完成し、プトレマイオスの『地理学』は『宇宙誌』と題名を変えて、教皇アレクサンドル5世に献呈された。
それまでの地理書といえば、キリスト教的世界を記したマンデヴィルの旅行記などの荒唐無稽な内容のものが多かったので、プトレマイオスの『地理学』の出現が大きな影響を与えた
プトレマイオスの世界図も、13世紀頃のビザンティンの手写本の図版に記された地名をラテン語訳して紹介された。
プトレマイオスは『地理学』において地図を作成したことは明記していないが、プトレマイオスの最初の編述本には疑いもなく地図が付されていて、プトレマイオス自身か、あるいはアガトダイモンと呼ばれる作図者がプトレマイオスを助けて作成したものと考えられる。その後原図のいくつかの地図は亡失したかもしれないが、 その他の地図は多かれ少なかれ様々な改変を受けながらも伝えられ、ビザンティンから将来された地図はおそらくその頃まで保存されていた写本に基づいたものと思われる。
プトレマイオスはオイクーメネーの最北限としてトゥレを位置せしめている。
ピュテアスによって伝えられたトゥレは、プリニウスによれば太陽が蟹座を通過する夏至の日には夜がなく、反対に冬至の日には昼がないと述べているように、実際はもっと北方の北極圏に当たるところに位置していると解されるが、プトレマイオスの地図にシェトランド諸島が記載されているのは、おそらくそれをプトレマイオスがトゥレと想定したからと思われる。
アフリカにおいてギリシャ時代以来常に問題とされてきたのは、ナイル川の源流である。
アジアの北部では、シルクロードの発達に伴って、ともかく初めてプトレマイオスの世界図にセリカまでが描かれたが、アジアの南部でも、アレクサンドリアとインドとの間には、インド洋の季節風を利用した海上交通と南海貿易の発達によって、ヨーロッパ人の地理的視野はインドからさらに以東の地域に及ぶようになった。
プトレマイオスの地理書や世界図は、はじめは手写本により、さらに1445年頃グーテンベルクの活版印刷が発明されると、1475年のヴィチェンツァ本を先駆けにして、15世紀には 7種、16世紀には 30種の版元がヨーロッパの各地で刊行された。
近代地図の発達を見た18世紀においても、なおプトレマイオスの権威は失われず、アフリカ、アジア内陸の河川、山脈、地点の名称などには、依然としてプトレマイオスに由来するものが多く見られる。
第Ⅰ巻 総論
天体現象の観測データを旅行記録よりも優先すべきこと
マリノスの考える既知の世界の緯度・経度の広がりを、天体現象の面から、陸路・海路の旅程の面から、訂正する。
マリノスの著作を世界地図作製には利用しがたい。
第Ⅱ巻 ヨーロッパ西部の州または総督領ごとの説明
第Ⅲ巻 ヨーロッパ東部の州または総督領ごとの説明
第Ⅳ巻 全リビアの州または総督領ごとの説明
第Ⅴ巻 大アジアの最初の部分の説明
第Ⅵ巻 大アジアの第2の部分の説明
第Ⅶ巻 大アジアの最果ての部分の州または総督領ごとの説明
第Ⅷ巻 要約
ヨーロッパを10枚の地図に、リビアを4枚の地図に、アジア全体を12枚の地図に作った。
訳注
単なる思弁ではなく、地球の自転と公転とを理論化したものとしての太陽中心説は、早くサモスのアリスタルコス(3c.B.C.)によって唱えられているが、セレウキアのセレウコスなどを除いて古代には支持者は少なく、ヒッパルコス(2c.B.C.)もプトレマイオスも地球中心説に逆戻りしてる。太陽中心説を採用しがたいものにしたのは、地球上どこでも物体が真下に落ちる事実、自転の巨大なスピードがもたらすはずの物体の影響が見られないこと、星の視差が見かけ上ないこと、季節の長さの不規則性と月の不規則な運動をこの理論では説明しにくいこと等。
(この時代にも太陽中心説があったことに逆にびっくりします)
前4世紀後半の航海者マッサリア(マルセイユ)のピュテアスの報告するトゥレは、6ヶ月ごとに夜昼の交代する北極圏の島で、アイスランド・ノルウェーの一部その他に比定されるが定説はない。マリノス・プトレマイオスは同名の島をずっと南に下げ、これはシェトランド諸島のマインランドかと考えられている。
(以前ピュテアスが行ったところはアイスランドだ、という説を主張する本を読み、このブログにも残しておきました)
PTOLEMAEUS ROMAE 1490
1490年ローマで刊行されたペトル・デ・トゥレのプトレマイオス世界図







