プトレマイオス地理学

プトレマイオス地理学 表紙

プトレマイオス地理学

織田武雄 監修

中務哲郎 訳

東海大学出版会 発行

1989年3月20日 第2刷発行

 

解説以外は現著からの訳になっていますので、専門的な内容の大きくて分厚い本です。

 

解説 プトレマイオス『地理学』 織田武雄

クラウディオス・プトレマイオスギリシャ・ローマ時代を通じて、古代の最も傑出した万有学者であり、天文学、地理学の他に、光学、音響学などの研究にも従事している。しかし彼は生年も没年も不明であり、ただアレクサンドリアに在住し、天文観測の日付から125年から151年に活躍したことが知られるに過ぎないが、あたかもハドリアヌス帝からアントニウス帝の時代にあたり、ローマ帝国が最も繁栄し、その版図は最大に達した。

プトレマイオス天文書に対して、『地理学』は8巻からなっている。

地理学と地誌学を明らかに区別している。

地誌学・・・世界のそれぞれの地域の特殊性を、個別的に詳細に記述することを課題とする。

地理学・・・既知の世界(オイクーメネー)全体を統一体と見なして、その自然や位置などを図表に描出することであると独自の見解を示している。

 

プトレマイオスの先駆者であるテュロスマリノスが収集した資料に基づき、これを増補、修正している。マリノスプトレマイオスを通じてのみ知られた地理学者であり、彼の著作も不明であるが、テュロスフェニキア人の港市として地中海のレバント沿岸に古くから栄え、ローマ時代にはシルクロードや南アジアからの情報も数多くもたらされたものと思われる。

 

『地理学』の中央部分をなす第Ⅱ巻から第Ⅶ巻までは、オイクーメネーに関する地理的目録が占めている。諸地域の極めて簡単な記載を除けば、約8100の地点の経度・緯度が、諸国や地域の境界に始まり、山脈や河川、時にはそこに居住する民族、最後に多数の都市や諸地点の順序で列挙されている。

 

プトレマイオスの地理書もヨーロッパでは千年以上も全く忘れ去られていたが、ギリシャ語を習得したヤコポ・アンジェロはイタリアにおけるギリシャ語の最高権威の一人となり、1400年頃からプトレマイオスの地理書のラテン語訳を開始し、1406年に訳業を完成し、プトレマイオスの『地理学』は『宇宙誌』と題名を変えて、教皇アレクサンドル5世に献呈された。

それまでの地理書といえば、キリスト教的世界を記したマンデヴィルの旅行記などの荒唐無稽な内容のものが多かったので、プトレマイオスの『地理学』の出現が大きな影響を与えた

プトレマイオスの世界図も、13世紀頃のビザンティンの手写本の図版に記された地名をラテン語訳して紹介された。

プトレマイオスは『地理学』において地図を作成したことは明記していないが、プトレマイオスの最初の編述本には疑いもなく地図が付されていて、プトレマイオス自身か、あるいはアガトダイモンと呼ばれる作図者がプトレマイオスを助けて作成したものと考えられる。その後原図のいくつかの地図は亡失したかもしれないが、 その他の地図は多かれ少なかれ様々な改変を受けながらも伝えられ、ビザンティンから将来された地図はおそらくその頃まで保存されていた写本に基づいたものと思われる。

 

プトレマイオスはオイクーメネーの最北限としてトゥレを位置せしめている。

ピュテアスによって伝えられたトゥレは、プリニウスによれば太陽が蟹座を通過する夏至の日には夜がなく、反対に冬至の日には昼がないと述べているように、実際はもっと北方の北極圏に当たるところに位置していると解されるが、プトレマイオスの地図にシェトランド諸島が記載されているのは、おそらくそれをプトレマイオスがトゥレと想定したからと思われる。

 

アフリカにおいてギリシャ時代以来常に問題とされてきたのは、ナイル川の源流である。

 

アジアの北部では、シルクロードの発達に伴って、ともかく初めてプトレマイオスの世界図にセリカまでが描かれたが、アジアの南部でも、アレクサンドリアとインドとの間には、インド洋の季節風を利用した海上交通と南海貿易の発達によって、ヨーロッパ人の地理的視野はインドからさらに以東の地域に及ぶようになった。

 

プトレマイオスの地理書や世界図は、はじめは手写本により、さらに1445年頃グーテンベルク活版印刷が発明されると、1475年のヴィチェンツァ本を先駆けにして、15世紀には 7種、16世紀には 30種の版元がヨーロッパの各地で刊行された。

近代地図の発達を見た18世紀においても、なおプトレマイオスの権威は失われず、アフリカ、アジア内陸の河川、山脈、地点の名称などには、依然としてプトレマイオスに由来するものが多く見られる。

 

第Ⅰ巻 総論

天体現象の観測データを旅行記録よりも優先すべきこと

 

マリノスの考える既知の世界の緯度・経度の広がりを、天体現象の面から、陸路・海路の旅程の面から、訂正する。

 

マリノスの著作を世界地図作製には利用しがたい。

 

第Ⅱ巻 ヨーロッパ西部の州または総督領ごとの説明

第Ⅲ巻 ヨーロッパ東部の州または総督領ごとの説明

第Ⅳ巻 全リビアの州または総督領ごとの説明

第Ⅴ巻 大アジアの最初の部分の説明

第Ⅵ巻 大アジアの第2の部分の説明

第Ⅶ巻 大アジアの最果ての部分の州または総督領ごとの説明

第Ⅷ巻 要約

ヨーロッパを10枚の地図に、リビアを4枚の地図に、アジア全体を12枚の地図に作った。

 

訳注

単なる思弁ではなく、地球の自転と公転とを理論化したものとしての太陽中心説は、早くサモスのアリスタルコス(3c.B.C.)によって唱えられているが、セレウキアのセレウコスなどを除いて古代には支持者は少なく、ヒッパルコス(2c.B.C.)もプトレマイオス地球中心説に逆戻りしてる。太陽中心説を採用しがたいものにしたのは、地球上どこでも物体が真下に落ちる事実、自転の巨大なスピードがもたらすはずの物体の影響が見られないこと、星の視差が見かけ上ないこと、季節の長さの不規則性と月の不規則な運動をこの理論では説明しにくいこと等。

(この時代にも太陽中心説があったことに逆にびっくりします)

 

前4世紀後半の航海者マッサリア(マルセイユ)のピュテアスの報告するトゥレは、6ヶ月ごとに夜昼の交代する北極圏の島で、アイスランドノルウェーの一部その他に比定されるが定説はない。マリノスプトレマイオスは同名の島をずっと南に下げ、これはシェトランド諸島のマインランドかと考えられている。

(以前ピュテアスが行ったところはアイスランドだ、という説を主張する本を読み、このブログにも残しておきました)

 

PTOLEMAEUS ROMAE 1490

1490年ローマで刊行されたペトル・デ・トゥレのプトレマイオス世界図

 

閉ざされた言語・日本語の世界

 

閉ざされた言語・日本語の世界【増補新版】表紙

閉ざされた言語・日本語の世界【増補新版】

鈴木孝夫 著

新潮社 発行

2017年2月25日 発行

 

初版は1975年に出版されましたが、それにやや詳しい注を増やすという形の増補版です。

 

第一章 日本人は日本語をどう考えているか

第二章 文字と言語の関係

外国語の教育を受けていない普通の日本人には、tや kのような単独の子音や、prやstrといった子音の連続を正確に発音することは容易ではない。ほとんどの場合、子音の後に小さく母音をつけてしまうのである。これは至極当然のことであって、日本語は音節の構造上、このような単独の子音および連続子音に対する必要が全くないからである。

 

日本語は仮名という音節文字を使っていることは、日本語の音声構造上の要求を、最少の文字で過不足なく表すために、実によく工夫されている。

 

トルコ共和国は帝国時代のアラビア文字を廃止し(1928年)ローマ字を採用して成功を収めた。

この場合には当時の識字率が全国民のわずか30%でしかなかったこと、改革の狙いの一つのトルコの社会を、イスラム文明圏からヨーロッパ文明圏に向かって方向転換させる意図があったことなどの社会的な理由に加えて、文字改革は成功した第一の原因は、それまでトルコ語を表記するのに用いられていたアラビア文字が、トルコ語という言語の構造に全く合わない不合理なものであったことである。

 

・日本語表記としての漢字は、主としてその音訓二重性のゆえに、原理的には表音表記であるヨーロッパ諸国などでは想像もできないような、本質的な影響を日本語という言語に与えている事実

・日本語の中に用いられてる漢字は、音声を表す代理記号としての文字表記であるよりは、むしろそれ自体が極めて視覚的な性格を持つ独立した伝達媒体となっており、音声と並立し、これと密接な相補関係に立っていることを明らかにする。

 

20世紀前半の欧米における言語学の流れの中で、文字とは言語そのものの外にある、言語の代用品であり、不完全な写しである、という考え方が極めて重要な位置を占めていた。

それに対し、日本人は文字表記をも、言語の実体の一部と受け取っている。

 

日本語には中国のような声調(四声)の区別、有気無気の対立がなく、そして音節末の子音の存在を許さない。そこで元の中国語では全く別の音形だった多くの漢字が、日本語に入ると同音になり、中国語では想像もつかないような数多くの同音異義の漢字が生まれた。

 

外国に行って日本語の音訓の意味を理解させるための説明

「すなわち」を意味するi.e.などは、that isと英語で発音したり、id estとラテン語そのままの呼び方をされたりする。

日本人はあなた方が、このような省略記号に限って行っている、同一表記の英語とラテン語による2通りの読み分けを、ほとんど全ての漢字に対して行える。

 

梅棹忠夫氏が漢字の訓読み廃止の提案者である。

それは音声と表記の1対1の対応という意味での、正書法の確立にある。

 

どの言葉を漢字で書くべきかとか、ある漢字の送り仮名をどうつけるかに関して、規範的で統一的な規則を決めなければならないという前提に立つと、日本語の現在の表記法は確かに収拾がつかないほど不統一なものに見えてくる 。しかしなぜ、発音されたある文を書き表す仕方が、唯一でなければならないのだろうか。

音声タイプライターのような機械が将来用いられるようになる場合には、その機械に限って、一定の方式で音声を文字化するように設計すればよい。

 

音訓対応という日本語独特の漢字使用法は、確かに一方では表記の不統一という現象を惹起してはいる。これはそれ自体としてはマイナスと考えられるのかもしれない。だがこの音訓対応こそが、高級語彙と日常語彙の連結という、他の言語には例を見ない利点をも生んでいることを合わせ考えると、1つの欠点を切り捨てることによって、意外なところに大きな損失が生まれる危険がある。

 

片仮名外来語の問題

・元の言語では全く同じ言葉が日本語に入ると、相互の同一性が見失われる

・元の外国語では違った音で区別され、表記も異なっていた 2つ以上の語が日本語に入ると、そこには対応する音の区別がないために、表記と発音がどちらも同形となり、混同されたり混乱するような場合

・全く同じ語が、異なった時代に二度取り入れられたり、用いる場合が違うため、日本語では別の発音の言葉となり、従って形も意味も違う二語と受け止められるようになっている例

 

第三章 世界の中の日本語の位置

日本人が外国の人に自分の国の言語を使ってもらったり、研究してもらったりした経験が極めて乏しく、そのくせ太古より異民族の言語を、それもほとんど文献だけを通しての学び続けた長い歴史を持つという、国際的な言語的一方交通を行ってきた珍しい民族だということである。

 

日本語は使用者世界6位の大言語

 

第四章 日本文化と日本人の言語観

イギリスは確かに日本と同じ島国であるが、ブリテン島を囲む海は、大陸からこの島への外敵への侵入、異民族の移住を妨げる障碍とはなり得ない程度のものであった。ドーヴァー海峡は狭い。

日本はこれより東にまだ大海原しかないという行き止まり的条件と、大陸との距離がつかず離れず的な都合の良いものであったこと、及び日本列島が、一応自給自足のできる閉鎖社会を成立させ得るだけの大きさと、南北に延びる豊かな風土を持っていたという、この3つの条件の偶然による組み合わせが、世界の文明史上、まれに見る特異な性格を持った文化を発展させる要因となっていた。

 

日本はのんきな国である。ルーマニアでも台湾でもどこでも、外国文化を受容するとか摂取するとかすまし込んでいることなど到底不可能だったろう。侵略者や支配者が泥靴でどんどん踏み込んでくる、無理な命令をする、税金を課する、人間を徴発する、女に手をつける、という惨憺たる有様で、そうしたひどい目に会いながら、必要上止むなく外来者の言葉を覚え、おこぼれの品物を頂戴し、相手からこっそり文化を掠め取る、というのが常態ではなかったのだろうか。

 

アメリカの占領軍と日本人との間に摩擦が少なかったということは、裏を返せば本当の直接交渉はなかったことになるからだ。

もちろん唯一の悲惨な例外として地上戦を経験し、四半世紀に及ぶ占領の続いた沖縄を忘れることはできないが、日本全体としては占領そのものが、日本人の心理の深層にある外国観を変えるにはあまりに間接的で、しかも短期間(正味7年)であったと言える

日本人はこれまでほとんど文献のみを通して外国文化を摂取し、理解しようと努めてきたために、書いてないことは、自分たちの持つ無意識の日本的前提で補い、書いてあることを、自分たちの無自覚的な下部構造の延長線上に置いて解釈するという伝統をいつの間にか身につけてしまった。

 

日本人にとって言語とは、例えて言えば水の性質を持っている。水は方円の器に従うと言われるが、器が壊れれば四散してしまう。日本語の現在ある姿は、日本という国の自然的環境と、人間的条件の産物なのであって、状況が変化すれば、日本語も直ちにそれに従ってしまうのである。

これに反してユーラシア諸民族の言語は、水銀のようなものである。それ自体が強靭な自己凝縮性を持っていて、環境の変化に対して極めて人為的ともいえる自己主張を行うのである。

 

今までは確かに日本は「不沈戦艦」であったが、今後は保障されてはいないということです。あらゆる文明の利器が発達した現在は、もはや四囲の海が穏やかな半透膜効果をもたらしていた幸せな時代ではない。

 

第五章 日本の外国語教育について

中近東、アフリカ、そして東南アジアの多くの国の知識階級が、英語あるいはフランス語を驚くほど上手に使うという事実が、実はこれらの人々がかつての侵略者、旧宗主国の言語でしか、十分な高等教育を受ける機会を持たず、また複雑な国内の言語事情のために、それ以外に自己を公に主張する手段を持たないことも反面意味する。

 

誰彼の見境もなく、英語の学習を強制することは、総合ビタミン剤を、健康人、病人の区別なく、絶えず飲ませるようなもので、無駄も甚だしい。私は英語に限らず外国語を学ぶものの数は思い切って、減らすべきだと思う。そしてこの今よりはるかに数の少ない人間に、現在とは比較にならないほど、密度の高い徹底した外国語教育を受けさせる必要がある。

大学の一般の英語教育、英文学科の英語英文学研究ではない、を英文学者、英語学者の手から切り離すべき。

 

英語国民に特有の思考の枠組み、文化(そして独特なイディオムと発音)からできる限り解放された英語を、イングリックと呼んで、英国の英語、アメリカの英語を基本として考えるイングリッシュと区別すべきだ。

 

イングリック実践の具体的方法

・日本語に訳すとどうなるかという、従来の訳読中心の授業は全く不必要となる。つまり習うより慣れろの態度でどんどん英語を使うのである。

・英語の教師は徹底的に英語を使って授業すべき

・文学作品を教科書から除外する

 

フランス語の歴史

フランス語の歴史 表紙

フランス語の歴史

島岡茂 著

大学書林 発行

平成5年10月20日 第4版発行

 

フランス語の起源

フランス語の歴史はローマ人がガリアに進出した時期に始まる。この進出は

ほぼ紀元前120年頃、まず南仏ナルボンヌを中心にプロヴァンス

100年頃、さらに進んでトゥールーズを中心にラングドック地方に及んだ。

やや遅れて紀元前50年になると、シーザーによる北部ガリアの征討が開始された。ここで注意したいのはローマ人がナルボネンシスと呼んだ今日のプロヴァンス地方と、その北につながる新しいガリアとでは植民の状況が全く異なっていたことである。天然の地形や気象の条件はもちろんだが、南に定住していたガリア人は性格的にも温和で、万事に協調的だったらしい。だからこの地域はローマの属領になる以前から、多くのローマ人たちが往来していたと思われ、民俗的にも言語的にもそのローマ化はかなり早かったに相違ない。

シーザーがガリア征討を開始した時も、ナルボネンシスはその根拠地であって、いわゆるガリアの中には含まれていなかった。彼がガリアに求めたのは、一つには人的資源であり、もう一つは通商の販路を確保することだった。だからアキタニアからナルボンヌ・アルル・マルセイユを経て北部イタリアに通ずる地中海沿いのルートとローヌ川をのぼって北へ、英仏海峡のブーローニュ達する内陸ルートの開拓が、ガリア征服の二本の柱となった。フランスに定住したガリア人は、西ヨーロッパに移動した最も有力なケルト民族だったが、小さな部族国家に分かれて分散し、強力な統一を欠いていた。

 

ローマの植民政策は極めて解放的で、能力に応じて原住民でも続々公職に登用したため、有能な青年層は競ってラテン語を学んだ。この教化に重要な役を果たしたのは各地に建設された学校である。

 

ガリアの農民は主人に引き渡したり、町に売りに行く産物にはラテン語の名称を使ったが、家畜の餌にしたり、捨て去るべき副産物にはガリア語の表現を残している。

 

ギリシャ語は地名や語彙にかなりの貢献を残している。例えばマルセイユの語源はギリシャ語であるし、ニースもギリシャ名である。ギリシア人から伝えられた語彙はガリア人のそれとは異なって技術的・専門的なものが多かった。

 

ゲルマン語の場合は、その導入がゲルマン人のガリア侵入以前のものか、以後のものかという問題がある。つまりローマ人がラテン語に取り入れてガリアに持ち込んだものと、すでにガリアに定住した後、ゲルマン人が持ち込んできたものとの区別である。多くの学説によると前者は極めて少なく、大部分は5世紀以降フランク人が持ち込んだものとみなされている。

 

フランス語の母体となったのはもちろんラテン語であるが、それは我々が学校で習う古典的なラテン語ではなく、一般大衆が日常口にした俗ラテン語である。だから「俗」と言っても悪い意味での「低俗」ではなく、どんな身分、どんな教育程度の人でも等しく日常使用できる、いわゆる話し言葉のことである。

 

全ての言語現象は一方的に単一な、論理的要因によって生ずるものではないこと、一つの変化を生ずる背後には我々の目に触れない無数の原因が働いていることである。

ガロ・ロマン語の主たる音的特性は上層としてのフランク語と、基層としてのガリア語との二重の要因に基礎を置いているのである。事実、フランス語史では500〜850年をフランク・ガリア時代とみなし、この間に俗ラテン語に起こった大きな変化は、何らかの意味でゲルマン・ケルト双方の影響を受けている。

 

俗ラテン、ガロ・ロマン、古仏語は一系の言語で、呼名は変わってもその間に区分があるわけではない。もともと俗ラテン語そのものが統一ある一つの言語だったわけではなく、地域によってかなりの相違があった。

古仏語の中心は12世紀あたりにおいておく。

本書で言う古仏語はもちろん北のフランス語であって、南仏語ではない。古い表現を使えばオイル語であってオック語ではない。

 

古仏語の音声体系の特徴は 、一言で言えばその母音の豊富さにある。ギローによると、12世紀における古仏語の母音は33種になる。これを現代フランス語の母音16に比べると、まさに2倍以上にもなるのである。

しかし よく検討してみると、単母音だけを比べればほとんど変化がなく、大きく変わったのは重母音の単音化による現象なのである。

 

語彙の交代と創造

ローマ帝国の崩壊(476)からフランク王国の盛衰を経てカペー王朝の創立(987)、さらに古仏語の時代に至る約8世紀の年代は、ローマ文化から近代ヨーロッパ文化へと移る長い過渡の時代だった。一般に文化の尺度を例えば美術・音楽・文芸ないしは科学に取る。そのことから見ればこの8世紀の歳月は空しい混迷の連続だったかもしれない。しかし、あらゆる文化の基礎とも言うべき人間の言葉は、言語の発展から見るなら、この時代こそ近代ヨーロッパの真の形成期であったと言えよう。俗ラテンからガロ・ロマンに進み、やがて古仏語の出現を見る。

 

語彙の多様化には、内的原因と共に外的原因が存在する。ローマ帝国崩壊に続き西ロマニアはゲルマン人の大規模な侵入によって数世紀にわたる動乱の時代を迎えた。その動乱の大きさと深さは、その後今日に至るまで歴史に比類のないものだった。そしてその激動の中心舞台はガリア、それも北部ガリア だった。フランク人の強いアクセントはラテン語の音韻体系を崩し、それが俗ラテンの言語構造に大きな変化をもたらした。

古仏語の語彙に支配的影響を与えたものは、封建的社会とそれに続く宮廷社会だった。

 

古仏語の文法形態

言語の進化は二重の要因によって支配される。1つは意味的なもので内容に関係し、他は形態的なもので形式に関係する。前者は言語に外在するものだが、後者は言語に内在し、言語体系そのものの内部に源泉をもつ。

 

ラテン語では樹木は実を生むものだから女性であり、生まれた実は中性に一定していた。つまり古典ラテン語では性を決定する上で意味が形に優先していた。ところが俗ラテン語ではその本来の意味より形が優先するようになり、木の名は全て男性名詞になった。

 

語源は俗ラテン語のtrepaliu「拷問台」で、ともに大きな苦痛を連想させるところから、フランス語では「労働」を意味することになった。英語でtravel「旅」になったのは、その時代の旅行が命がけの苦行だったことを物語るものである。

 

俗ラテン語の文構成に出現した最大の変化に「冠詞」の普及がある。古代のギリシャ語には定冠詞があったが、ラテン語にはない。

古仏語では冠詞の有無は現実・非現実の対立を表した。

 

中仏語

言語状態は、その言語を用いる人たちの心理を通して、社会状態につながる。だから混沌の時代には言語もあらゆる点で混乱する。古仏語の混沌はその忠実な反映である。だが中仏語の時代に入ると、これに対する反省と、その反省に基づく反動が来た。雑草のように空しく繁殖していく言語を人為的に淘汰しようという動きである。それは百年戦争を通じて生まれた愛国心の萌芽や、いわゆる俗語による国民文芸の台頭など、一連の自覚的運動に見ることができる。その成果が結実に向かったのがいわゆるルネッサンス、つまり16世紀であり、そこから17世紀の古典仏語が生まれたのである。

 

言語体系の全体により大きな影響を及ぼしたたのは、語末子音の弱化・消失である。複数の-sが最終的に消えたのが16世紀であり、不定冠詞desを含めて部分冠詞が広がったのもこの時代であった。

 

フランスが位置的にも西欧の中心にあり、多くの民族の離散集合の舞台になった事情から、古仏語はロマンス諸語の中でも最も豊富な内容を持つことになった。例えば 外来語にしても、フランスには同じゲルマン系でもフランク・ノルマン・ブルゴン・ゴートなど、アラブ系でも東のイタリアと西のスペインと双方から流れ込んでいる。古仏語はいわばそれら全体の貯水池の役をしたのである。だがその貯水池はまだ不透明な混濁の中にあったのである。

 

ラテン語の再移植、学者語の氾濫と同時に正書法の修正が大幅に行われた。古仏語の正書法は必ずしも一定せず、かなり流動的だったが、だいたいにおいて発音を写した単純なものだった。ところが中仏語の末期になると、語源を意識して様々な冗長な文字が加えられることになった。中には過剰訂正とも言える誤った事例も少なくない。

 

古典仏語の形成

17世紀はルイ大王の時代であり、その強大な中央集権の力は言語の世界にも及んだ。中仏語の時期は、一面では古仏語の混沌を整理しようとする努力の時代であったが、多面フランス語の貧困を補うべく、古典語や外来語を大量に、その上やや無統制に導入した恨みがあった。そこから生じた、あるいはその原因にもなった政治と精神の無秩序に対する反動は、フロンドの乱を機に一層激しさを加えた。理性と論理に基づいて言語を鍛え直すべくポール・ロワヤルの文法家が立ち上がったのもこの時期である。

 

近代仏語の形成

フランス革命以後、民衆の発音が貴族のそれに代わって一部進出したことは事実である。

 

かつて16世紀にイタリア語の氾濫を見たように、19世紀に入ると英語の大量移入を見ることになる。これは18世紀以降、政治・文化の範が主として英国に求められたことによる。その中にはかつてフランスから移出された語が内容を変えて再移入されたものも少なくなかった。

 

19世紀以降は科学技術の飛躍的発達によって、膨大な専門語は創造されることになる。その多くはギリシャ語・ラテン語と土台としたもので、学者的な接頭・接尾辞を使って多数の新語が作られた。

 

近代フランス語で最も重大な変化は、単純過去形の口語からの消失である。その原因の一つは、多くの重要な動詞でこの形は現在形と同一であることにある。

 

否定の副詞neはすでに古仏語の時期からその音声の弱さから多くの補助詞をとっていた。その中でpasが抜きん出たのは14世紀、つまり中仏語の時代だった。近代に入るとpasに本来の「一歩も」の意味を失って単なる否定のしるしとなり、やがて否定の意味がneよりpasの方へ比重を移すこととなる。この関係を最も敏感に感じ取ったのは民衆語で、そこでは早くからneを落としてpasだけで動詞を打ち消す傾向を生じた。

 

近代的表現の特徴として 、疑問文の形式がある。古仏語では主語と動詞の倒置が原則だった。しかし民衆語ではこの倒置を避けるため、すでに中仏語の時代からest-ce queを使う迂言的形式が普及していた。

 

文例テキスト 古仏語から現代仏語まで

シャルルマーニの孫シャルルとルイが協力して長兄ロテールに対抗するため、842年にストラスプールで取り交わした『ストラスブールの誓約』はフランス語で書かれた最古の文献である。『誓約』が収められているニタールの歴史はラテン語で書かれているが、誓いの部分だけは当時のフランス・ドイツ両語のまま残されている。この誓約でフランス王シャルルはドイツ側の将兵にわかるようにドイツ語を、逆にルイはフランス側に分かるようにフランス語を使用したのである。

 

8世紀末に行われたシャルルマーニュのスペイン遠征に際し、フランク軍の後衛がサラセン軍の奇襲にあって全滅した。これはフランク軍の一部が敵と内通したためであるが、この戦いで大王の甥ローランが英雄的な最期を遂げた。『ローランの歌』はその武勲をたたえたもので、11世紀末に成立したものとされている。

 

1447年フランドル地方に生まれたコミーンは、はじめ ロレーン候シャルル(豪胆王)に仕えたが、後にフランス 国王ルイ1世に移り、1489年-1498年にわたって有名な「回顧録」を書いた。その視野の卓抜と知識の広大さをもってフランス歴史の始祖とも言われる。

 

琥珀の都 カリーニングラード

 

琥珀の都 カリーニングラード 表紙

琥珀の都カリーニングラード

ロシア・EU協力の試金石

蓮見雄 著

ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会 企画・編集

東洋書店 発行

2007年6月20日 第1刷発行

 

ロシアの飛び地であるカリーニングラード

池内紀さんの『消えた国 追われた人々 東プロシアの旅』を読んで、興味を持ちました。

現在はロシアのウクライナ侵攻の後のため、この本が書かれた時とは、また違った状況になってると思われます。

 

はじめに

カリーニングラード州は世界の琥珀の90%近くを占める、最大の生産拠点

 

そもそもケーニヒスベルグの繁栄は、ハンザ同盟の都市として外の世界との交易によって支えられたものだった。ソ連バルト艦隊の拠点であり半世紀も閉鎖都市として外の世界から隔離されてきたカリーニングラードは、91年に開放都市となり、再び外の世界と向き合い新しい居場所を探している。

注目すべきは、サンクトペテルブルグカリーニングラードを含むロシア北西地域との協力を視野においた、バルト経済圏の胎動だ。

 

ケーニヒスベルグは、ドイツ騎士団の東方植民に始まり、ハンザ同盟の都市として繁栄し、プロイセン王国の基となった場所だ。

 

Ⅰ カリーニングラード外観

カリーニングラードは、リトアニアとの200kmの国境、ポーランドとの210kmの国境、バルト海に面した140kmの海岸に囲まれた面積1万5100平方キロメートルの地である。この日本の四国より一回り小さい領域に約95万人の人々が住んでいる。

 

Ⅱ カリーニングラードをめぐるロシア・EU 交渉の成果と問題点

カリーニングラードはロシアから切り離された「飛び地」として、EUにとっては異質の「包領」として、いわば二重の辺境になる。

 

特に問題になったのが、社会主義時代の遺制でIDカードだけで行き来できたリトアニアポーランド国境をどう管理するかであった。

2003年7月以降、カリーニングラード住民は、国境通貨の際に再入国可能な簡易通行証、あるいは1回ごとに簡易鉄道旅行証を携帯しなければならない。

 

マモーノヴォの国境を越えてポーランドのグダンスクに向かう際、ポーランド側の検問所ではスムーズに手続きが進んでいるのに、ロシア側では5時間もかかったと述べている。賄賂目的で強制的に停止させられることもあり、時間短縮には100ユーロの賄賂が必要だとも言われる。筆者も同じルートを通ったことがあるが、確かにロシア側では車が渋滞していた。

(池内紀さんもカリーニングラード出国の際には車が混み、賄賂が必要だったようです)

 

国境を行き来する担ぎ屋貿易の問題もある。カリーニングラードのタバコ、酒、ガソリンなどはポーランド側の半値なので担ぎ屋で簡単に儲けることができる。また50g以上の原琥珀の持ち出しは禁止されているが、生産される琥珀の80%は闇市場に消えてしまう。その多くがポーランドに運ばれ加工される。グダンスクを訪れるとわかるが、琥珀店が軒を連ね、デザインも値段も、カリーニングラードのものよりはるかに上である。

 

Ⅲ カリーニングラード経済特区とその現実

カリーニングラードには、ヴェステェルという小売チェーンの店舗がたくさんあり、市中心地の店舗は24時間営業だ。

 

リトアニアとの国境ネマン川沿いの町ソヴィエツク

かつてのティルジットである。プロイセンがフランスに敗れ、1807年にナポレオンとロシアのアレクサンダーⅠ世が講和条約を結んだ場所である。

 

カリーニングラード州は、途中12ヶ月の中断があるとはいえ、今日まで経済特区を維持してきた唯一の地域である。当初この地は「バルトの香港」と期待されたが、結局国内では「関税の穴」国外では「組織犯罪の温床」というイメージが定着してしまった。その背景には、経済特区体制そのものが極めて不安定であったという事情がある。

 

そもそもロシア連邦政府のカリーニングラードに関する政策は、外国資本を誘致するよりも、ロシア資本のプレゼンスを高めることによって、「飛び地」に対する支配権を確実なものにすることに主眼が置かれている。

 

EU は共通価値の自発的受け入れに基づいて、共通利益と影響力の拡大を目指す多元的開放型の「ソフトな帝国」と特徴づけることができる。

 

Ⅳ バルト経済圏 新しいチャンス

バルト海沿岸には、様々なINTERREG(ⅢA=国境を挟む協力、ⅢB=EU 内外地域を含む広域の地域協力枠組み)がある。カリーニングラードと国境を接するポーランド北部とリトアニア南部を含めた人口 673万人が住む地域でもINTERREGⅢAの枠組みで地域協力が進みつつあり、これに3つのユーロ・リージョン(地方自治体レベルの自発的協力)が重なっている。

この地域はポーランドリトアニアの中心地から遠く、1人当たりのGDPはそれぞれの国の平均の半分で、失業率も高い。すでに述べたように、カリーニングラード国境における担ぎ屋貿易の背景には、このような問題がある。

 

Ⅴ ロシア・EU協力のパイロット・リージョンを目指して

表紙のルイーザ女王橋は、リトアニアのパネムーネとカリーニングラードのソヴィエツクの間のネマン川にかかる橋である。この橋は1904年から7年にプロイセンのティルジットで建設された。第2世界大戦で橋は落ち、 町の名前はソビィエツクに変わったが、この門は2つの大戦を生き抜いた。

 

レレレのおじさんが恋しくなる秋の終わり

落ち葉に埋まる歩道

落ち葉が歩道をふさいでいます。
風情があっても、歩きにくくなるのは否めない
レレレのおじさんが、近所にも居てくれたらなぁ…


 

ヨハネス・ケプラー 天文学の新たなる地平へ

ヨハネス・ケプラー 天文学の新たなる地平へ

オックスフォード 科学の肖像

ヨハネス・ケプラー

天文学の新たなる地平へ

オーウェン・ギンガリッチ 編集代表

ジェームズ・R・ヴォールケル 著

林大 訳

大月書店 発行

2010年9月21日 第1刷発行

 

コペルニクスの後に続く天文学碩学ケプラーの一生が分かりやすく述べられています。

 

第一章 彗星

1571年12月27日、ドイツのヴァイル・デア・シュタットでヨハネス・ケプラー誕生。

1577年、歴史上とりわけ壮観な彗星の一つが現れた。

 

1517年にマルティン・ルターカトリック教会とたもとを分かった後、しばらくの無秩序が支配していた。

 

ケプラーはまず普通のドイツ語学校に通ったが、たちまちラテン語学校に移った。これは、ドイツ語学校と並行して存在する、大学につながる学校制度の一部だった。

その奇妙な結果の一つに、ラテン語では実に優雅な文体で書いたのに、母語で同じようにうまく書くことはついにできなかったということがある。ケプラーは真面目な本や手紙は全て、ドイツ人宛の手紙さえ、ラテン語で書いた。

 

ケプラーに数学と天文学を教えたのはミヒャエル・メストリンだった。

メストリンは、太陽中心の体系が実際に成り立ってると考える数少ない人たちの一人だった。だがそれでも、初心者である学生たちに古い地球中心のプトレマイオス天文学を教えていた。

 

はるか北のヴェン島でデンマークの貴族ティコ・ブラーエがすでに1577年の彗星について徹底的で精密な観測を行っていた。その結果、これも月より上にあることがわかった。彗星があると考えられていた、月のすぐ下にある、火の領域にあるのではなかった。

 

第二章 宇宙の秘密

1594年4月11日、ヴュルテンベルクからオーストリア南部、シュタイアーマルクの首都、丘の上にある砦の町グラーツに着いた。ヴュルテンベルクが揺るぎなきルター派の国だったのと違って、シュタイアーマルクではカトリックプロテスタントがぎこちなく共存していた。

 

ケプラーは学校の先生としての職務に加えて地区の数学官にも任命された。こちらの職務は暦を作り、来たる年についての占星術的予測を立てることだった。ケプラーには人生を通じて占星術をめぐって複雑な思いがあった。それが「ばか者の迷信を助長する」ことを嫌っていた。だがその一方で、惑星が一列に並ぶことは人と自然に、微妙だが重要な影響を及ぼすと心から信じていた。

 

ケプラーは、特にこの無名の人物の名前を面白がった。ファーストネームがラストネームと、こだまのようにそっくりだった。その名はガリレオ・ガリレイケプラーは、公にコペルニクスを支持するようガリレオを急ぎ立てた。

 

第三章 新しい天文学

1600年1月11日ケプラーは、ティコ・ブラーエに会うためグラーツを発った。そして神聖ローマ皇帝の本拠地であるプラハに着いた。

1600年2月4日のケプラーとティコの出会いには科学史上並外れて深い意義がある。2人は、この上なく違っていた。ティコは貴族で自信に満ち、居丈高で喧嘩好きだった。ケプラーは平民で誠実で思索にふけることが多く、争いを好まず、もったいぶらなかった。それでいて2人は錠前と鍵のようにお互いにぴったりだった。35年にわたる天体観測の結果という一生の業績を20巻の本にまとめていたティコが観測家だった。そして、憶測という面が強い、薄いものだったが本を出すという業績を上げていたケプラーが若き理論家だった。2人とも目覚ましい才能の持ち主で、各々の技能がもう一方の技能を補っていた。

 

火星の軌道を、その部分に沿って少し潰し、面積あるいは時間を軌道の他の部分に再分配しなければならないということだ。ケプラーの言い方を借りれば、太いソーセージを握って、真ん中のところを潰し、肉を両端に押しやるようなものだった。こうしてケプラーは物理学的な直感で、軌道は完璧な円というよりむしろ卵のような形をしているに違いないという結論に至った。

 

1610年3月15日、飛び上がるような知らせがプラハに届いた。ガリレオが新たな惑星を4つ発見したというのだ。

 

ケプラーの最初のふたつの法則

・惑星は、焦点の一方が太陽にある楕円軌道を描いて進む

・惑星と太陽を結ぶ線分が一定時間に描く図形の面積は一定である

 

第四章 世界の調和

1611年7月3日妻バルバラが死亡

ケプラーが新しい花嫁を見つけるまでの、苦しみに満ちた道のりは、名前の示されていない友人の貴族にあてた手紙に記録されている。色々な候補が番号だけで表され、嫁探しが滑稽にも数学のような感じを帯びた。

 

天体暦には、その年の1月1日の惑星それぞれの位置を示す表が含まれている。天体暦は占星術師と航海士にとって欠かせない参考図書だったので、ケプラーの時代の天文学者は、これで大儲けができた。

 

ケプラーの第三法則

惑星の周期の2乗を距離の3乗で割ると、魔法のように全ての惑星でほぼ同じ値になる。

 

第五章 魔女裁判

1618年5月23日「プラハの窓外投擲事件」で三十年戦争が始まる。

1620年の秋、ケプラーリンツを離れてヴュルテンベルクに戻る。

 

第六章 夢

本当に新しい惑星運行表はヨーロッパの歴史でケプラーのそれがやっと3つ目だった。

コペルニクスプトレマイオスの表はだいたい同じくらい正確で、ケプラーの表の正確さはその50倍ぐらいだった。

 

シュトラスブルクで行われたケプラーの娘の婚礼にケプラーが行かなかったわけは、距離と年齢、59歳という年齢に加えて、妻のズザナが妊娠8ヶ月だったからである。

 

ケプラーの最後の本『夢』

別の世界の架空の状況を描写するための、細かい枠組みを作るのに、ケプラーが科学的知識を用いている点で『夢』は、サイエンスフィクションのはしりとして重要だという人もいる。

 

1630年11月15日、ケプラー死亡

 

エピローグ 証明

天文学者たちは、1631年11月7日に水星の太陽面通過を観測しようと望遠鏡を据え付けた。ケプラーの予測はわずかに外れたが、太陽面通過は予測の時刻の6時間以内に起こった。