ジャンヌ=ダルクと百年戦争〔新訂版〕

ジャンヌ=ダルクの百年戦争〔新訂版〕 表紙

ジャンヌ=ダルクの百年戦争〔新訂版〕

堀越孝一 著

清水書院 発行

2017年4月30日 初版第一刷発行

 

はじめに

18世紀の啓蒙主義は、ジャンヌの事績を迷信と反理性の表現と解説し、

19世紀のロマンティシズムは、民族の感情的基盤、女性的なるもの等々の言葉づかいのうちにジャンヌを称揚した。

実証主義者は、かれらの実証の背後に、国家主義の偏見と党派根性が重苦しくよどんでいるという事態に、無邪気にも気付かなかった。あるいは臆面なくこれを無視した。

彼らは、結局、ジャンヌをたねに、彼ら自身を語ってきたのである。

 

Ⅰ 噂の娘

イメージのジャンヌ

この時期のフランス史の動向を「ジャンヌ=ダルク」を軸にして説明するやり方に、いぜん私たちはどっぷりつかっている。

当時のヴェネツィア人、パンクラチオ=ジュスチニアーニの手紙は、私たちの慣れ親しんでいるそういう理解の枠組みを揺さぶるものである。

その手紙では、まず「王太子軍」によるオルレアン防衛の成功について書き、多数見聞された予言者の言動の一つとして、「羊飼いの娘」のことを書く、この記述の組み立て自体が面白い。

 

オルレアンの攻防

 

Ⅱ 百年戦争後半の幕あけ

王権横領

百年戦争の中のオルレアンの戦いの時の三つの政権

・ノルマンディーとギュイエンヌ(アキテーヌ)とパリを押さえるフランス。イギリス王ヘンリー6世はフランス王を兼ねている。

・アルトワ、フランドル、さらにネーデルランドに勢力を張りだしているブルゴーニュ候フィリップ

・ロワール中流域のベリー候領の首府ブールジュに政府を構える王太子シャルル

 

党派の争い

 

分裂するフランス王国

 

Ⅲ ジャンヌ現代史

オルレアンへ

ジャンヌは「声」にフランスに行け、と命じられた。

その「フランス」とは何か?

シャンパーニュの西にあたり、セーヌとオワーズの間と言いまわされることがある土地を単に「フランス」と呼ぶ呼び方は当時普通に見られた。

前述のパンクラチオの手紙にも、たとえば「フランスとピカルディーの間」という言い回しが出てくる。

 

北征

シャルル王太子とジャンヌがあった時、「しるし」について話し合ったという記述あり。

この「しるし」の内容はなんなのか?

王太子の母はとかく噂の立った女性だっだから、シャルルは母を疑ってくよくよ悩んでいたというのである。

「ブールジュの王」、あほうな王太子伝説を中核をなす学説である。

これは史料的にも状況判断の上からもまったく支持されない。

 

当時26歳の王太子がジャネットの純な信心に心打たれたというのは十分考えられる。感動に対し素直な精神構造の時代だった。

 

Ⅳ ルーアンのジャンヌ

コンピエーニュの悲歌

コンピエーニュの出撃の目的は何だったのか?

略奪のための出撃という推測も、十分成立する。

 

裁かれるジャンヌ

闘う教会、これは在世の教会組織のことである。

ジャンヌは教会の統制に従わない。だから教会はジャンヌを教会の外に置く。

これが法廷の到達した結論であり、ジャンヌ告発の根本理由である。

 

ジャンヌは回心して、一度は火刑を逃れていた。

火刑という見世物を期待した群衆は、腹を立てて裁判を行っていたコーションに石を投げたりした。

 

しかしジャンヌは結局異端に戻り、火刑されてしまう。

 

おわりに

結局のところジャンヌとは何だったのか。

この問いにはついに答えられない。

ジャンヌはごく当たり前の少女だった。

感受性鋭く、霊的な刺激に敏感に反応する少女であった。

この少女が政治の世界にからめとられる、そのプロセスについての恣意的な仮説の申し立てについては厳に慎まなければならない。

 

参考文献

アンリ=ギュイマン「ジャンヌ・ダルク その虚像と実像」は原史料に忠実に存在を認知しようとする動向の上に立ち、ジャンヌという存在の神秘性を真正面から見据えた好著である。

 

 

 

新古今集 後鳥羽院と定家の時代(後半)

第七章 帝王が支配する宮廷と文化

一 聖代を描く『源家長』日記 事務局長が見た新古今時代

 

二 遊興の空間 水無瀬殿の後鳥羽院と近臣たち

水無瀬殿は後鳥羽院離宮の一つであり、水無瀬川が淀川に合流する地にあった。後鳥羽院はここで近臣と遊ぶのを非常に好んだ。

狩猟蹴鞠、笠懸、小弓、競馬(くらべうま)、騎射、管弦、囲碁、将棋、双六、連歌など、遊びの限りを尽くし、遊女・白拍子による郢曲・歌舞、更には猿楽などを楽しんだ。

 

三 上皇による文化支配 諸道の興隆

 

四 『新古今和歌集』完成の後 狂騒の連歌会、変質する和歌所

 

第八章 歌壇からはじかれた人々の開花

一 鴨長明の見た新風和歌 衝撃と失踪

 

二 和歌試以後の顕兼 『古事談』の成立

説話集『古事談』の編者(作者)として知られる源顕兼

 

三 晩熟の歌人信実 『今物語』の達成へ

後年歌人として大成した藤原信実

 

四 嘲弄される人々 旧風歌人たちの悲哀

 

五 建礼門院右京大夫の晩年 仄見える姿

 

第九章 新古今歌壇の夕映

一 順徳天皇の歌壇 後鳥羽院鍾愛の皇子

 

二 避けられぬ破綻 定家への院勘

後鳥羽院御口伝の定家評

詠歌は巧緻で、歌道を極めている様は殊勝であり、和歌への評価眼は素晴らしいが、他人は眼中になく、時も場も配慮せず発言し、己の価値観に絶対の自信を持ち、狷介な定家像。『明月記』に現れている定家と小気味よいほどに一致する。

 

三 承久の乱の衝撃 敗北した上皇

 

四 さまざまな運命 北面武士秀能など

 

第十章 流謫の上皇

一 我こそは新島守よ 隠岐後鳥羽院

 

二 往来する人と和歌 隠岐と都の交錯

 

三 再び和歌を編む 『隠岐新古今集』など

 

四 隠岐での日々、そして死 最晩年の後鳥羽院を描く書状

この時代の資料では珍しく、将棋の記事が出てくる。清坊入道(清寂)は、将棋の腕前を大風呂敷を広げて自慢する。これは大将棋ではなく、小将棋を指すようだ。

 

五 その後の土御門院と順徳院 二つの日記の発見

 

第十一章 都に生きる定家

一 後堀河天皇の時代 清廉の天皇

 

二 『新勅撰和歌集』の撰進 見えざる後鳥羽院の影

 

三 好士たちの姿 定家周辺に群れ集まる人々

天福元年(1233)七十二歳の定家は、撰集作業で多忙を極める中、勅撰集に入集を望む人々、そのための詠草を提出する人びとが頻繁に訪れていた。

 

四 『新古今和歌集』への視線 定家と後鳥羽院の思念

 

第十二章 終焉と再生と

一 至りついた最晩年 定家の死

 

二 めぐりくるもの 後嵯峨院の時代

新古今時代、後鳥羽院は実に専制的な上皇であったが、定家の表現世界を束縛することなく、定家は和歌の中では自由に羽ばたいていた。

 

新古今集 後鳥羽院と定家の時代(前半)

新古今集 後鳥羽院と定家の時代 表紙

新古今集 後鳥羽院と定家の時代

田淵句美子 著

角川学芸出版 発行

角川選書 481

平成22年12月25日 初版発行

 

お名前からして「句」に人生を捧げておられるような著者による、後鳥羽院藤原定家という熱い歌人を中心とした、和歌の黄金期の、映像を描き出しています。

 

第一章 新古今時代の前夜

一 後鳥羽天皇の誕生 新古今時代を作った帝王

 

二 和歌の家の親子 藤原俊成と定家

中世前期においては、宮廷の政治と文学・文化とは、人的にも空間的にも、同心円状にある。

勅撰集は、単なる秀歌のアンソロジーではなく、和歌を用いて、宮廷とその文化の過去・現在・未来を示そうとする集である。

 

三 前衛的試みのさまざま 『六百番歌合』など

建久4年(1193)披講された『六百番歌合』は建久期の九条家歌壇を代表する歌合である

 

四 九条良経の存在 パトロンとして、歌人として

 

第二章 後鳥羽院歌壇始まる

一 黄金時代への扉 後鳥羽院と定家の出会い

和歌の神が、ふと宮廷に舞い降りたのか。和歌の黄金時代である後鳥羽院歌壇は、正治二年(1200)のある日に、不意に始まったといってよい。

 

二 爆発的な歌壇形成 和歌にのめりこむ後鳥羽院

 

三 悲喜こもごもの和歌試 新人登用試験

 

四 上皇天台座主 歌壇の慈円

 

第三章 女性歌人たちの活躍

一 老女房と新人女房と 発掘と円熟

 

二 俊成卿女 権門の妻から専門歌人

俊成卿女は『新古今集』を代表する女房歌人

 

三 宮内卿 夭折した女房歌人

 

四 異端の皇女 式子内親王を把え直す

 

第四章 『新古今和歌集』撰ばれる

一 和歌所を置く 文学空間への変貌

 

二 険阻な山路と祈り 熊野御幸

 

三 勅撰和歌集撰進 上皇親撰の『新古今和歌集

 

第五章 後鳥羽院歌壇の隆盛

一 未曾有の歌合 『千五百番歌合』

 

二 歌合の時代 実力主義専制

 

三 王朝物語の和歌を編む 『物語二百番歌合』など

 

四 俊成の九十賀とその死 巨匠の最期の言葉

 

第六章 『新古今和歌集』の改訂と完成

一 和歌所の小宴 厳しい編纂の合間に

 

二 最初の完成 『新古今和歌集』竟宴(きょうえん)

竟宴とは、宮中で編纂などが終わった後に開かれる祝宴のこと

 

三 徹底的な改訂 良経と定家の役割

 

四 従来説より遡る成立年 『新古今和歌集』の成立

家長本は、『新古今集』を書写した一つにすぎない

新古今和歌集の成立は、これまで推定されていた建保四年から六~七年遡って、承元三年、遅くとも四年に、全体が成立したという可能性が高い

 

 

 

エラスムス 闘う人文主義者(後半)

ホルバインによるエラスムス肖像画

第7章 ヴェネツィアの印刷業者

エラスムスは『格言集』刊行を実現するため、予定していたローマ行きを一時中止してヴェネツィアに移り住むようになった

 

もともとヴェネツィアは、十五世紀中葉以来、印刷・出版活動のきわめて盛んな街だった。

 

当時のイタリアは、現在と違って、食事の量が少なかった。エラスムスのような北の人は、食事の量は多かったため、食事の時は自分の部屋で食べるようにしていた。

 

第8章 ゆっくり急げ

「ゆっくり急げ(Festina lente)」

ローマの皇帝アウグストゥス座右の銘だと伝えられるが、さらに遡れば「ゆっくり熟慮して、しかる後素早く行動せよ」というアリストテレスの『ニコマコス倫理学』の教え以来、古代世界において好んで言及され、ルネッサンス期においては、更に広く人々の間に広まっていた処世訓である。

 

痴愚神礼讃』はイギリスのトマス・モアの家に着いて、わずか一週間で書き上げたもの

 

第9章 『痴愚神礼讃

痴愚神礼讃』は、決して当時においてそれほど異例の作品ではないこと、しかしそれにもかかわらず、それは一般に考えられている以上に、深い独創的な書である。

 

舞台や宮廷の「道化」の伝統を引いているには違いないとしても、書かれた諷刺文学として「愚者」に一人称のかたちで喋らせるというこの形式はエラスムスの独創によるものである。

 

第10章 宗教改革の嵐

イタリアに到着して間もなく、たまたまボローニャで眼にした教皇ユリウス二世の、およそキリストの使徒らしからぬ血なまぐさい武張った姿を生涯忘れることができなかったエラスムス

 

エラスムスのイタリア滞在の時に教皇の座にあったユリウス二世の時代は、前任者のアレクサンデル六世、後継者のレオ十世の時代とともに、一面ではルネッサンスの最も華やかな、ということは他面から見れば最も「堕落した」時代だった。

 

エラスムス痴愚神礼讃において、いたるところに教会の腐敗に対する批判の爆薬を仕掛けておいた。

もしエラスムスの方に誤算があったとすれば、痴愚神礼讃の予期以上の成功によってその時限爆弾があまりにも早く効果を上げてしまったということであろう。

 

もともとエラスムスは、ルターがあらゆる種類の闘争を恐れなかったのとは正反対に、ペンの上での争いは別にして、どんな形の戦争もこれを嫌悪し、否定した。

 

エラスムスが分析する、なぜ戦争が起こるのか

・王位継承の戦い

・君主同士の私的な闘争

・盲目的な国民感情

・暴君が自己の権力を保ち続けるため、ときには扇動者を使ってまであえて起こす戦争

 

第11章 嵐のなかの生涯

エラスムスはルターの考えが正しいか否かというよりも、彼を無理やり沈黙させようとする教会のやり方に反対して意見表明の自由を擁護しているのである。

 

エラスムスによってラテン語は万人に語りかける手段であった。ラテン語は共通言語だったが、印刷術とまさに同じ時に「生きた言語」としての生命を失うこととなった。それが強力な近代国家成立と時を同じくしているのも、決して偶然ではない。

 

第12章 自由意志論争

ルターの九十五か条があれほどまでに大きな対立に発展するとは考えていなかった。

はじめはそれは修道会同士の争いくらいにしか考えていなかった。

アウグスティヌス修道会の修道士のルターが、ドメニコ修道会の免罪符販売を攻撃したからである。

 

対ルターの問題において、エラスムスにあれほど長い間態度決定をためらわせていたのは、彼の性格の「欠陥」であるよりも、やはり自由な思想家でありたいという彼の強い意志であったと思われる。

 

ホイジンガエラスムスとルターの思想史上の巨人の論争を「揺れ動く海を眺めていたオランダ人と、不動の山を仰ぎ見ていたドイツ人」との争いと言ったが、まことに適切な比喩と言うべきであろう。

 

第13章 栄誉ある孤立

バーゼル滞在の頃、ルターからは「両棲類の王」と罵られ、フッテンから「裏切者」と決めつけられ、カソリックの側から「異端者」と告発され、そして後世の歴史家から「臆病者」と貶められるエラスムス

 

新旧いずれの派に対しても、党派的なものに加わることを拒否し、非理性的なものを嫌悪し、自己の精神の自由を守り続けたという点では、エラスムスの行動は見事に一貫している。

 

 

エラスムス 闘う人文主義者(前半)

エラスムス 闘う人文主義者 表紙

エラスムス 闘う人文主義

高階秀爾 著

筑摩書房 発行

筑摩選書 0271

2024年1月15日 初版第一刷発行

 

西洋美術史が専門の著者により、エラスムスの一生を叙述しています。

もともと1970年代初頭に発表された文章で、著者の学生運動の経験から感じたことを、エラスムスが生きた混乱の時代に反映させているようです。

 

第1章 我、何者にも譲らず

ロッテルダムの町では今でもなお、人びとが子供たちに向かって、近くの市庁舎の大時計が時を報ずるたびに、エラスムスの像が手に持った本の頁を一枚めくるという言い伝えを語って聞かせるという。

 

エラスムスのコインの裏側に刻まれたテルミヌス神は、彼にとっての守護神であり、「我、何者にも譲らず」は彼の座右の銘だった。

 

何よりも彼は、党派的な闘争を憎んだ。できれば、双方の側の調停者になろうと努めた。

 

第2章 不信の時代

エラスムスの七十年に近い生涯で、十年と同じ場所に落ち着いて暮らすことができなかった。

 

当時の思想界の王者として、生まれながらの貴族のようにきわめて洗練された優雅な物腰と精神的魅力を備えていたエラスムスが、生まれた年もよくわからない私生児だった。

 

エラスムスの生年について、1466年説と1469年説の二つがある。

僧籍に入った父への配慮と、兄との関連があるのだろうか。

 

エラスムスがイタリアに旅していたのは、ミケランジェロやラファエルロが活躍していた時期だが、その芸需品には全く触れておらず、イタリアの食事のまずさなど、もっぱら食物のことばかり書いている。

 

第3章 変革への底流

一千年、または五百年という区切りのよい時代が一つの世界の終わりを示す単位であるという考え方も、洋の東西を問わず見られるところである。

 

「新しい宗教」と神秘主義的傾向を併せ持ったドメニコ派修道僧ジロラモ・サヴォナローラ(1452-98)

 

グリューネヴァルト(1470頃-1528)の「イーゼンハイムの祭壇画」

当時の幻想文学に直接触発されたもの

 

エラスムスが生きたのは、ヨーロッパが激しい興奮状態にあった時代

奇しくも同じ年に生まれたニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)とともに、あくまでも冷静に醒めていた数少ない精神の持ち主

 

第4章 古代へのめざめ

エラスムスの生涯は、古典古代に対する強い情熱に支えられていた

 

エラスムスの残した仕事

・キリストの僕としての業績

古代ギリシャ、ローマの重要な文献の翻訳、校訂といういわゆる人文主義者としての功績

 

エラスムスは近代人としてただひとり、イタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァラ(1407-57)の名前をあげている。

ヴァラは優れたラテン語学者としてのみならず、近代的な批判精神に富んだキリスト教徒として、ある意味エラスムスの先駆者だった。

 

第5章 ふたつの友情

パリ大学神学部付属のモンテーギュ学寮の不潔な環境と過酷な生活、煩雑な神学論議は、肉体的にも精神的にも、エラスムスには耐えがたいものだった。

 

1499年の六か月ほどのイギリスの旅行は、エラスムスの生涯にとって決定的と言ってよい影響を及ぼした。

それは人文主義キリスト者、ないしはキリスト教的ユマニストとしての彼の進む道を決定し、何人かの優れた知識人との交友、ことにトマス・モア(1478-1535)とジョン・コレット(1467-1519)との友情をもたらした。

 

第6章 イタリアへの旅

三年間のイタリア滞在中、レオナルドやミケランジェロ、そしてマキャヴェッリなどとの交渉は持たなかった。

 

1506年には、イタリアの代表的な人文主義者は、みな世を去っていた

エラスムスのイタリア訪問は遅すぎた

 

最初のイギリス旅行からイタリア旅行の六年間のエラスムス

ギリシャ語への傾倒

・ヴァラの『新約聖書注解』の原稿の発見およびその刊行

・『キリスト教兵士提要』の執筆

 

ダブリンに存在したソ連の残像(アイルランド)

ダブリンのバー「プラウダ」(素手に閉店)

ダブリンの街を歩いていたら、画像のような赤色を中心としたファサードで、インパクトの強いソビエト連邦風の店を見つけ、写真に残していました。

店名はプラウダのようです。

プラウダとは新聞の名前で、今もまだ発行しているようですが、やはりソ連時代のイメージが強いですね。

画像検索で確認してみると、ウオッカベースのカクテルなどを出しているバーとのことでしたが、もう既に閉店しているようです。

二十年以上前ですから、閉店していても不思議ではありません。

グーグルマップで現地を見てみると、今は全く別のライブハウスになっていました。

 

フィッツィモンズホテルのバーにて(ダブリン、アイルランド)

アイリッシュミュージシャンたち

アイリッシュダンサー

フィッツイモンズホテルのパンフレット

フィッツイモンズホテルのパンフレット

ジェームス・ジョイス・タワーからダブリンに戻り、宿泊先のフィッツィモンズホテルに帰ってきました。

ナイトクラブやバーも併設されており、当たり前のようにそこに入りました。

自分の撮った写真だと、他のお客さんの後ろ姿がやたら目立ったりしてあまり上手く撮れていませんので、当時のパンフレットの写真もつけておきます。

アイリッシュミュージックのライブと、アイリッシュダンスを踊るお姉さんたちです。

ホテルなので、フロントから入りますが、ちょうどその時、ダンサーたちが休憩時間でダラっとだべっていました。

特に控室のようなものは無かったようなので、彼女たちも仕方なくそこにいたのでしょうが、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がしました(笑)